https://naritaetuko.jp成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたこと

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2024年4月26日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 「デイズィ!」(それは似たような名前に響いた。)
 「オウ、本当に!十分だ、僕は去年のフトゥボール秘書を偶然知っている;だから彼はスカンドゥルを(スキャンダル)を広めて簡単に君の息を止めようとする。君はとにかく間違っている。7問。4つのミスだ!君は明日の朝7時に僕の『キューブ』に来るんだね。分かる?よい夜を!」
 彼は彼のヘア・ブラシュをろうそくの上で振った、すると巨大な影が天井に現れた。

 詩の会はほぼこの時死滅したーだからこれはそれがどのように死滅したかである。その6学年のメムバの二人はミーティングに出た、そして互いに恋愛や自然についてかなり切れ味の悪い、形式的な詩を読み合った;僕達の誰一人としてそれらにほとんど注目しなかった。
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2024年4月25日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  随分ひそひそ話して。
 「草地の中で転げ回るその馬の年は何歳?1、2、3・・・」
 「6つ!」僕は言った、思い切って。
 「間違い;3-8。5問、3つ間違ってる!その血統を尋ねられなかった自らを幸運だと思いなさい。」
 「カヌーを漕いでいる色は何色?1、2、さ・・・」
 「そこには何色もない!」
 「君はお祭り騒ぎに立ててしまう;しかし君はそれを勘定に入れられない。3つのミス。ジョウンズ?」
 「はい。」
 「去年のフトゥボール秘書にはひどく愛着を持っているという噂が表明するその女学生の名前はなんて言った?1、2、3、4・・・」
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2024年4月24日水曜日

Good-bye to All that Robert Graves 成田悦子訳

 「僕は言う、ジョウンズ、ウイーカイトゥからファーンカムまで君はどうやって辿り着くの?1、2、3・・・」
僕はカウント・アウトゥになる前にただ橋までの道筋だけを発した。」
 「3問。1つのミス。君は10の内3つのミスを許される。」
 「カルトゥジオ修道会雑誌は何処にある?1、2、3、4・・・」
 「君はカルトゥジオ会修道士事務所のことを言っているの?」僕は尋ねた。皆笑った。
 「4問。2つのミス。僕は言う、ラビンソン、彼ははるかに多くに答えられた。我々は彼に2つの針を用意しょう。」
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2024年4月23日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  「それじゃあ今度はジョウジの番だよ、」声を掛けた。「彼は今日走り回って僕に深入りした、ちょっととんでもない玄人だ。我々は彼にきつい質問を用意しなければならない。!」
 「僕は言うよ、ジョウンズ、寮長の色は何?ーハウスの寮長の名前は何かと僕は言っているつもりだ、彼の色は黒混じりの白か?1、2,3・・・」
 「ガードゥルストウン君、」僕の声は暗闇で震えた。
 「彼は明らかに比較的単純な色を心得ている。我々はかれをめちゃくちゃにしよう。ブラク(ブロック)寮が属すクラブの色は何色?1、2、3、4,・・・」
 僕は何日もこれらの質問に起きている時に囚われていた、それにノックアウトゥの宣告をされる前に答えを出した。
 「二つの質問。ミスはない。僕達はすっかり振り落とさなければならない、」誰かが言った。
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2024年4月22日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 My NEW-BUGS EXAM僕の新入り試験

四半期の第二金曜日の晩の9時半に明かりが消え、帰ろうとする寮長のかすかな足音がもう耳に入らなくなると、楽しみが始まった。談話室下の長は自ら調査官や死刑執行人になった、そして時計係、質問記録係、彼の評判の悪い友達の支えによってうまく助けられた。僕はその時小心な「新入り」だった、そして僕のパジャーマズ(パジャマ)は恐怖の汗でぐっしょりだった。僕の仲間3人は僕に対して尋問が向けられる前に調べられ、刑を宣告された。
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2024年4月21日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

そして、詩の出来栄えは必ずしもこれで損なわれなかったが、多くの読者は1863式によって1913年に書かれた作品に対して偏見を持ちかねない。
 ジョージ・マラリ、シリル・ハートゥマン、レイマンドゥそして僕は1913年の夏にGreenChartreuseと名付けられた1冊の雑誌を出版した。それは1号だけにしようと計画された」;公立学校における新しい雑誌は何時も第1号は売り切れる、そして第2号で大損をする。Green Chartreuseから校内訛りで書いた自叙伝趣味の僕自身の投稿の一つを引用しよう。
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2024年4月20日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は僕に現代作家の存在を教えた。僕自身より2世代上になる僕の父や、僕の唯一のの書物との繋がり、Shaw,Samuel Butler,Rupert Brooke,Wells,Flecker,或いはMasefield,そしてその発見は僕を興奮させた。僕は先ずEdward Marsh(その時Asguithの秘書)、彼は何時も僕に対して親切な友人、彼と、僕達は今は互いにめったに合わないが、僕は一度も口論をしたことがない:この中で彼は僕の戦前の友達の間では独特である。マーシュはマラりが彼に見せた僕の詩を好んだ、しかしそれらのものは50年前の詩の言い回しで書いてあると指摘した、
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2024年4月19日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

一撃は両ウエイトゥを僕に獲得させた、そのため僕は二つの銀のカプを受け取った。しかし僕もまた僕の肘が高く上がらないことで両親指とも脱臼させてしまった。僕が何年か経って売ろうとすると、僕の口の中に食べ物があったために、それらはただ板金を掛けられただけだとばれた。
 僕の最期の2年の内に起こった最も重要なことは、ディックに対する僕の愛着から離れて、僕はジョージ・マラリと付き合うことになった:26か27歳の教師、ケイムブリジ出身で長くはない、学生と見間違えられるほどの余りにも若々しい見かけ。初めから彼は僕を対等に扱った、その内僕は彼の部屋で僕の空き時間に読書をしたり、或いは田舎で彼と一緒に散歩に出かけたりして過ごすようになった。
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2024年4月18日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 試合の最終段階は僕の記憶ではぼんやりしている。僕は今はレイマンドゥのことだけを心配しなければならないーほとんど僕より重い一つの石、ともかくミドゥルウエイトゥ級を勝ち取るつもりだった;しかし彼もまた二つの重量に入っている、ミドゥルとヘヴィ、そしてまさに手強い闘いを貫いて来た、ヘヴィ・ウエイトゥの最終の勝者と共に、それは続けるべきどんな適当な形勢でもない所に彼を置いた。だから彼は僕との闘いを抹消した。僕はレイマンドゥは全く同じに闘おうとしたと僕は信じる、それは他の誰に対してもそうだった;しかし彼は僕に勝ちたかった、そして彼の抹消は僕に試合の間の一休みを僕に与えてくれる。それから準決勝出場者はウエルタ級で僕に対して抹消した、そこでもう3試合しか残っていなかった、そして僕は彼らの内の誰一人第1ラウンドゥ以上に進ませなかった。
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2024年4月17日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

2ラウンドゥで僕は彼を僕の右一撃でナク・ダウンした、ところが彼は起き上がった。幾らか曲がりくねった感じで、僕は急いで彼をナク・ダウンしようとした。僕はそのラウンドゥ4、5回彼をナク・ダウンしなければならなかった、ともかく彼はカウントゥを取らせようとしなかった。僕は後で、彼は僕自身のように、闘いを見守るディック意識したのだとはっとした。しまいに僕は思った、彼が再び僕の方へよろよろと進んだ時:「今度お前が倒れて倒れっぱなしにならなくても、僕は二度とお前を打つ気は全くない、」それはそれ自体を僕に提供したので、僕はただ彼の顎を押しただけだった、が、それで十分だった。彼は倒れ、倒れたままだった。この2回目のナク・アウトゥはまるで番狂わせだった。ナク・アウトゥはまるで番狂わせだった。ナク・アウトゥはこうしたバクシング試合では珍しかった。僕はもう一度冷たい風呂と何杯かのチェリ‐フイスキ目当てにハウスに戻ると、僕は僕を者、珍し気に見ている男達に気付いた、ほとんど賞賛と共に。
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2024年4月16日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕は僕のコウトゥを取りに更衣室に向かった、すると勇敢なハリス軍曹、バクシング教官が言った;「こっちを向いて、グレイヴズさん、何故君はミドゥルウエイトゥ級にも君の試合をかきとめなかったの?」僕は僕は上機嫌で頷いた。それから僕はハウスに引き返した、そこで僕は冷たい風呂と、更にチェリ‐フイスキを味わった。僕の次の闘いはミドゥル・ウエイトゥの第1ラウンドゥで、30分後行われる。今回の相手、僕自身より重い一個の石だった。しかし少しばかり科学を用い、第1ラウンドゥの間、忙しくあちこち動き回った、するともし僕がかなり早めに何か仕掛けなければ、彼は僕を疲れ切らせるということは僕には見て取れた。
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2024年4月15日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

そして点数で与えられる判定に任せるといい;しかし君達のどちらも互いを傷付けるな!」そうして僕達はバクシングをした。アランは彼の友達に見せつけ始めた、彼らは前列に座っていた。僕はぶつぶつ不平を言った「そんなことよせ、僕達はバクシングをしているんだ、喧嘩をしているんじゃないぞ!」ところが数秒後、彼はまた僕を殴打した、むやみに熱心に。僕は腹が立って、彼の首の側面への直撃と共に彼をナクアウトゥ(ノックアウト)した。これが初めてだった、僕は今まで誰一人ナクアウトゥしたことはなかった、その気分は僕のチェリ・フイスキと有頂天を存分に混ぜ合わせた。僕はぼんやりとその一撃は通常の校内バクシングカリキュラムの一部分を担ってはいないと悟った。左ストゥレイトゥ、バディに左、頭に右;左右フク;これらの全ては知られていた、しかしその一撃はなぜか軽視された、おそらく理由はそれがあまりにも「可愛げ」がなかったからだ。
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2024年4月14日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

何れにせよ僕の母はそのカードゥを持ち去り、仕切り部屋にそれを無事に置いた、僕のチェインおばあさんから相続されたアン王女の銀貨と一緒に、ヴィクトーリア女王は、彼がダブリンで彼女の前で説教した時、彼に与えた主教グレイヴズのダイアマンドゥ・リング、僕達のクライストゥ教信者用マグカプ、そしてミス・ブリトゥンによって遺言に残されたヴィクトーリア調宝石類、そして仕切り部屋の宝物は決して仕切り部屋を離れなかった。僕は僕自身永遠に僕の誓約から手を切ったと見做した。
 その試合は土曜の午後の1時頃に始まり、7時まで続いた。僕はその初戦で引き分けられ、それに僕の相手は、不運にも、アランだった、アランは僕を引っ掻こうとした。僕はそんなことをするのはそりゃあ卑怯に見えるぞと彼に言った。僕達はジャック・ヤングに相談した、彼は言った:「いや、最もスポートゥマンらしいのはそうしたこと抜きにバクシングをすることだよ、
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2024年4月13日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はアランのおかげで案外簡単に事が運ぶという考え方を全く好まなかったが、確かに僕は試合に参加せざるを得なかった。僕の息遣いは、フトゥボールでは申し分ないが、バクシングのラウンドゥに次ぐラウンドゥと同じであるはずがない、僕の闘いは短くなければならない。ハウス執事は僕のためにチェリ・フイスキ(チェリー・ウイスキー)一瓶をこっそり持ち出したー僕はそれで戦いを短くしよう。
 僕は僕の一生でそれまでに何かアルカホール(アルコール)の入ったものを吞んだことはなかった。僕の母は、7歳で誓約カードゥにサインするよう僕を説得した、そのことが、僕がそれを覚えている限り、あらゆるアルカホール(アルコール)を含むリカー(リキュール)から神の思し召しによって遠ざけることを僕に強いた。
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2024年4月12日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の5期目の年に僕は6学年に達しハウス係になった。そこにいたのは僕達6名。彼らの中の一人、ジャック・ヤング、ハウス競技会のカプタン(キャプテン)、気さくで、大らかな奴、は或る日言った:「ここを見て、グレイヴズ、僕はハウス間バクシング(ボクシング)試合に参加者のリストゥに記載して送らなければならない。僕は君の名前を書き留めてもいい?」僕のレイマンドゥとの絶交以来バクシングはその関心を薄れさせていた;僕はフトゥボールで忙しかったし、今はハウスチームのために試合をしていた。「僕はこの頃はバクシングをしていない、」僕はヤングに打ち明けた。「それで、」彼は言った、「年下のアランはウエルタ級に参加している。彼はかなりのチャンスを手にした。何故君もウエルタ級で参加しない?君はまあまあ強い男の一人や二人被害を与え、彼なら案外簡単に事を運べるかも知れない。」
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2024年4月11日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕は彼に対する性的欲望を意識せず、僕達の会話は何時も客観的だった。この非合法のの交友関係は論評を免れなかった、やがて教師らの内の聖歌隊で歌っていた一人は、僕にそれを終えるよう警告した。僕は誰かに制限された僕の友情を抱え込むつもりはないと答えた、ディックは僕自身と同じことに興味がある、特に書物に;僕達の年齢の違いは不運であるように思いがちで、僕自身の年齢の男子の間の知性の欠如は、僕が可能な所で友達を見つけることを僕に強いた。とうとう校長がそれについて厳しく叱った。僕は彼に年上と年下の男子生徒間の友情の利点を高尚に抗議した、プレイトウ(プラトン)、グリーク(ギリシャ)詩人ら、シェイクスピア、マイカランジャロウ(ミケランジェロ)そしてその他、僕がそうだったように誰かが思って来た。彼はどんな行動もとらず僕を放免した。
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2024年4月10日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 しかし彼がアイリシュ近衛兵と一緒だった時。僕は或る午後彼の割り当てのスぺイス寝台まで乗り越えた、その時までに完全な不可知論者になっていたので、嘗てと同じように彼に近付くのを感じた。彼はその後そんなに長くはなく、カムブレで殺された。僕のレイマンドゥとの関係は仲間同士で;れんあいではなく;しかし僕の4年の内で僕自身より3歳若い一人の男子生徒と僕は恋に落ちた、彼はとりわけインテリで、良心的だった。彼をディックと呼ぼう・ディックは僕のハウスではなかった、所で僕は最近校内聖歌隊に参加し、彼もそうだった、それは聖歌隊の練習の後、時々彼に話しかける機会を僕に与えた。
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2024年4月9日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 彼自身への彼の自尊心が理知的な存在としてこんなことを自らに禁じた。彼は更に僕に尋ねた:「もし君に心があるのなら、魂を持つことにどんな利益があるのか?魂の役目は何?それはゲイムの中の単なるこまのように思える。」
 理由は僕がレイマンドを愛し、尊敬したから、僕はこの衝撃的な質問に僕名何とかして一つの答えを探そうとすると思った。ところが僕がそれを熟慮すればするほど僕の根拠はますます確かではなくなった。そこで宗教に偏見を持たせないようにするために(そして僕は宗教や僕の人間愛に先立つ僕の救済のチャンスに応えた。)最初に僕がすっかりレイマンドゥへの完全な僕の友情を絶った。その後で僕はぐらついた、しかし情け容赦ない無神論者として。どんな寛大な教会の妥協案をもって僕が彼に近付いても彼は僕に会おうとさえしない。カルトゥジオ修道会での僕達の時間の残りの間中、僕は僕の距離を保った。
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2024年4月8日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

全学期の間中精神的絶頂として儀式を楽しみに待ちつつ、信仰への僕の全ての思いを傾けた。その時が来て神聖な霊は鳩の姿をして舞い降りて来れず、僕は皮肉にも自分自身に天分があるとは気づかず、何一つ見せ物には出くわさなかった(それを除くとルーズ―ランドゥの主教は、僕自身が僕達二人共膝間付いていた狭い足のせ台から滑り落ちると同時に、祈っていたその男子)僕はどうしても反応を感じるように義務付けられていた。レイマンドゥは堅信礼を施されなかった、そして認めること、また彼が無神論者だということを自慢まですることで僕を驚かせた。僕は神の存在やクライストゥ(キリスト)の神性、三位一体の必然性について彼と口論した。彼は言った、三位一体のことを、アナシウス心情に同意できる、「誰が救われようともそこには三つの不可解どころか一つの不可解もないと告白しなければならないという誰でも、人は定義によって理解できない何かを信じないのなら地獄に行くしかない」と断言していた。
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2024年4月7日日曜日

Good-bye to All That Robert graves 成田悦子訳

 この公の演出はハウス内の僕の立場を改善した。その時医者は再びフトゥボールをすることを僕に許可した、そして僕は正々堂々と得意気にそれをした;しかし事態は思わぬところで悪化した。それは堅信と共に始まった、僕は熱心な福音の教師によってそれを用意された。
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2024年4月6日土曜日

good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕は未だにハウスの下級生のメムバの連中を除いて一人の友人もいなかった、彼らには僕は僕の上級生への嫌悪を隠さなかった;僕は全体としてはかなりの数の下級生を見つけた。この年の終わりに向かって、一年生のバクシングと体育のショウで、僕はレイマンドゥと3ラウンドゥ闘った。そこにはバクシングー二重の芝居、相互性、痛みは痛みとして感じない、への数多くの愛着がある。僕達はどちらも傷付けること或いは勝つことの外にいた、僕達はお互いに懸命に打ち合いはしたが
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2024年4月5日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 終わりにファーストゥ・イレヴンのカプタンはこの学内定例会議の違反についてレンドールに不平を言った、懲戒の処置によるブラズらの権利を守らせるよう許しを請いながら。レンドール、彼は給費生で、策略という慣習を好まなかった、彼の要望を拒んだ、6学年がファーストゥ・イレヴン同様独自の特権に値すると主張して。そして彼の意見では、彼らが何を決めてかかるのかを掴む権利を与えられていた。ブラズらの威信は大きく傾いた。
 レイマンドゥの激励で、僕は一緒に僕自身を引っ張り、次の学年が始まった時、比較的楽に非常に多くのことに気付いた。僕の主な弾圧者、アイリシュマン(アイルランドゥ人)は、神経の衰弱と共に離れて行った。彼は僕に異常に興奮して許しを請う要求を書いて来たー同時にもし僕がそれを拒んだら、彼には未だに僕に酷な時間を与える友人一人がいると言いながら。僕はその手紙の返事を出さなかった。
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2024年4月4日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

マンスフィールドゥ、ウオラ、そしてテイラは彼らとして動き始めた、日曜日の礼拝の後、秋季の学期の慣習は図書室で会ったり、噂話をしたりする男子のためにあった;そこで図書室へとマンスフィールドゥ、ウオラ、そしてテイラは向かった。ところが彼らは話好きな一人の教師を引き留め、彼らと一緒に中に入って、長話をして、夕食時まで彼に話し続けた。もしブラズらが敢えて何か乱暴なことでもしでかしたら、彼らは直ちにそれを収集しようとしたに違いない。ところが教師の手前、一場面たりとも設けられはしなかった。マンスフィールドゥ、ウオラ、そしてテイラは夕食のためにそれぞれのハウスへと降りて行った、相変わらずその教師と話しながら。その後、彼らは何時も揃って公然とあちこち歩き回る、そして学校、特に下層の学校、それは既定の服装に長く苛立って来たのだが、彼らを英雄にし、弱腰同然のブラズらを嘲笑し始めた。
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2024年4月3日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 3人の6学年はゆっくりと側廊に歩いて近付いた、素晴らしいグレイのフランネルのズボン、スリトゥのあるジャキトゥ、蝶襟、それに各々が彼の折り返しにピンクのカーネイションを付けていた。この総監に驚かされ、ぞっとさせられ、誰もが最高のイレヴンのカプタン(キャプテン)を注目して目で追った。彼はすっかり蒼褪めていた。何れにせよこの時までに教師達は入場し、聖歌隊が後に続いた。オウプニングの讃美歌、不揃いに歌われたが、緊張を終わりにした。礼拝堂が空になった時それは何時も「校内階級に従って空になった、つまり勉学の状況による:6学年は従って最初に出て行った。ブラズらは校内階級においては全員高位にいなかった。
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2024年4月2日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 そこで次の日曜日、マンスフィールドゥ、ウオラそしてテイラはカルトゥジオ修道会で嘗て行われた中で最も勇敢な行動をした、礼拝堂は朝の11時に始まった、しかし全校生徒は11時5分前までにその席に着いてそこで座って待っていなければならなかった。11時2分前にブラズらは何時も堂々と歩いて来た;1分30秒前に教師達が来た;1分前に彼らのサープラスを身に着けた聖歌隊が来た;その時校長が到着した、そして礼拝が始まった。もしどんな男子でも、思いがけず遅れたら、5分前と2分前の間にこっそり歩いて入った、その時600組の目が彼に付いて行った;彼には囁いているのやらブラドゥである振りをする彼の無謀さをくすくす笑っているのやらが聞こえた。この日曜日に、その時、ブラスが彼らの何時ものふんぞり返って歩きながら自信たっぷりに入って来た時、異常な事態が勃発した。
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2024年4月1日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 カルトゥジオ修道会の規律は厳格なカーストゥに基づいていた;カーストゥ‐印或いは地位、着衣における僅かな区別がある。新入生に何の特権もなかった;彼の2学期に男子は質素な物の代わりに編んだタイを;彼の2年目にはカラーソックスを;3年目には主な特権の大半をーターンダウンカラ、カラーハンカチーフ、長いロールのあるコウトゥ、等々;4年目更に2、3、富くじをきちんと買う権利のようなそんなもの;しかしブラズには特別の区別が予約された。これらは明るいグレイのフランネルのズボン、蝶襟、後ろが切れ上がったジャキットゥ、それに腕に腕を絡めて歩く権利を含んだ。
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2024年3月31日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

フトゥボールのカプタン(キャプテン)は創立者のコートゥで噴水の中に3人の調印者を投げつけるぞと彼は誓った。しかし何故か彼はそうしなかった。実は秋季の学期に入って早々これが身に降りかかったからだった、そして二人の他のトップのイレヴンの色だけがその前年からそのままにして置かれた、新しい色はフトゥボールシーズンが進むに連れ、徐々に許された。その他の乱暴者は単に胎児ブラズに過ぎなかった。そこで事はこれらの6学年のインテリと3人のイレヴンのトップの色の間で解決されなければならなかった。ところがイレヴンのトップらは、マンスフィールドゥは学内のヘヴィー級のバクシングチャムピアンで、ウオラはミドゥル級バクシングチャムピアン、そしてテイラは同様に見なされるようなタフな奴だと不快に思っていた。彼らが一体どうしたらよいかと思案している内に、マンスフィールドゥは敵国へと戦争に赴くことが決まった。
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2024年3月30日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

ブラズは歓声ややじによってその会合を妨害し、テイブルの上の雑誌フォウルダを叩きつけた。マンスフィールドゥは、クラブの会長として、彼等を修道会に呼び出し、彼らが妨害を続けた時は討論を終わりにした。
 ブラズはその出来事は終わったと思っていた、しかし彼らは勘違いをした討論クラブでのひどい行いに対して抗議する一通の手紙が2、3日後カーシュウジアンに掲載された。「確信的イレヴンベイビーズ」サインされたイニシャル3組はあのマンスフィールドゥ、ウオラ、それにテイラだった。学校はこの自殺的に大胆不敵な行動に驚き、吸収されるようにコラー、デイサンそしてアビラムを待った。
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2024年3月29日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

或る土曜討論の夜、何時もの礼儀正しい定例協議会は「ブラズ(血気ら)」ークリキトゥやフトゥボールイレヴンのメムバら、の騒々しい参加によって中断された。ブラズ(血気ら)はカルトゥジオ修道会の有力なカーストゥだった;フトゥボールイレヴン11番目の男、彼は4学年を背負ったメムバだったのかも知れないが、は6学年の中では最も優秀な給費生よりはるかにずっと信望を享受していた。「学内の首席」でさえ空々しいタイトゥルだった。それにしても6学年はインテリで、ブラズ(血気ら)は決して争わなかった。ブラズ(血気ら)はぶつかり、衝突によって得るものはなかった;インテリらは一人残されても幸せだった。だからこのブラズの侵入は、カジュアルら(思いがけなさ)に対して「アウエイ」試合に勝つことでまさに報いた、そして浴びるほどのビア、非常に多くの頭痛の種を討論クラブに引き起こした。
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2024年3月28日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はバクシングを真剣に猛烈に始めた。レイマンドゥは言った:「これらのクリケタやフトゥボウラ達は皆バクサを恐れる、ほとんど迷信のように彼らは自分のきれいな顔を失うのを恐れて自分はバクシングをしないー一年生のハウス間の試合はそんな流血の出来事だ。マンスフィールドゥを君は覚えているか、ウオラとテイラショウ?あれはきっちりやって行くには有効な伝説だ。」     。」
 もちろん、僕は覚えていた。2学期は前もって、そこでは校内討論クラブの有名な会合があった、6学年の男子から成るそれらの委員会。その討論はかなり退屈だった、カルトゥジオ修道会で何が知的な生活として通用するかは、討論クラブによって示され、カルトゥジオ修道会によって、何時もこの委員会の二人のメムバー何者にも教師の制約を受けない公共機関によって編集された。
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2024年3月27日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は言った:「君はフトゥボールをすることを許されなかった;君は何故バクシング(ボクシング)をしないの?それで気が楽になるじゃないか。」僕はそうするよと、笑って僕は約束した。するとレイマンドゥは尋ねた:「君の頭文字のことで皆は君をからかうんだと僕は思うんだが?」「そう、彼らは薄汚いジャーマン(ドイツ人)と僕を呼ぶんだ。」「僕にも悩みがある、」彼は僕に打ち明けた、「僕がバクシングをしっかり習得する前。」レイマンドゥの母親はスカティシュ(スコットランド人)だった;彼の父親はオーストゥリアン・ポウル(オーオーストリア系ポーランド人で、ブルークランズ・レイシング・トゥラックの創立者。
 極めて少数の男子がバクシングをした、そしてバクシングルーム、学校の向かいの菓子屋、レイマンドゥに会うのに最適の場所を得た、それに反して、僕は彼に会おうとしなかった。詩歌クラブの会合以外では。
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2024年3月26日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

寮、或いは年齢(関連はあるが、或いは隣、故郷の隣人)勉学とかクリケトゥやフトゥボールのように組織立った競技での形式的な知人を越えた、譬え彼らがテニスとかスクワシュ(スカッシュ)の親善試合を一緒にしても、彼らは決してその終わりを聞こうともしない。
 そこで二人の比較的若いメムバの一人、僕とレイマンドゥ・ロウダカムスキとの間で始まった友情は、非常に月並みだった。クラブの会合からの或る夕方の帰りに、僕は寮での暮らしについてレイマンドゥに打ち明けた。1、2週前僕の勉強部屋に急襲され、僕のかなり個人的な詩が奪い取られて「ライティング・スクール」ー下層スクールのメムバのための居間の掲示板にピンで留められた。そしてその結果詩を救えなかった。レイマンドゥ、僕が人間を語ることのできた一番のCarthusian、憤慨して僕の腕を彼の腕の中に抱え込んだ。「彼らは残酷な野蛮人だ!」彼は僕に僕が自分自身を結集して、何か肯定的なことをしていかなければならない、理由は僕が素晴らしい詩人で、素晴らしい人間だから。僕はだから彼を愛した。
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2024年3月25日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves成田悦子訳

 今この時、僕に備わった装置のままであろうとして、僕は詩を書き始めた;そのハウスは僕の髪に乗せた形だけの麦藁より狂気のより強固な証拠と考えた。詩という強みの上に立って僕は校内雑誌に送った、The Carthusian、校内詩歌クラブー最も優れた7人のメムバに入るよう誘われた。その会合、詩の朗読と討論、はガイケンドールの寮で一月に一度開催された、当時学校の学年担任、今やハムステドゥの大学付属か理事スクールの校長。そのメムバは、4人は6学年、そして2人の男子は僕より1年半年上だった。僕自身と同じハウスの者は一人もいなかった。カルトゥジオ修道会で、違うハウスとか年齢の男子間ではどんな友情も成立しない。
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2024年3月24日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はThe Book of Kingsからその考えを得た、「デイヴィドゥは監獄の壁に殴り書きした」。
 これは裏切り行為で僕の両親を告発すべきではない。彼らの名誉は非難の向こう側にある。次の学期、僕は特別列車でカルトゥジオ修道会に向かったが、切符を買おうにも随分遅くなってウオータルーに到着した。僕は列車が出発する前にちょっとカムパートゥマントゥ(仕切り)にどうにか入った。その鉄道会社は十分な客車を備えていなかったので、僕は、途中ずっと待つしかなかった。ゴウダルミング駅でタクシを確保するために駅構内に改札口を通過する僕を払い除けて大急ぎで駆け出す男子の群れ、だから僕は実に乗り心地の悪い空席を手に入れた。僕は家への次の手紙でこれに触れた、ちょうど何か言わなければならないから、そして僕の父は僕を咎めるために書いた。彼は自らウオータルー駅に特別訪問し、ゴウダルミング行きの切符を買い、それを引き裂いた・・・僕の母はさらにもっと良心的であることができた。ウインブルダンに僕達と一緒に彼らのハニムーン中の若いカプルが嘗て立ち寄った、そしてサンドゥウイチの包みを後に残した、二人は既に半分食べていた。僕の母はそれらを送り届けた。
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2024年3月23日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

幸運なことにハウス内の性的不品行については僅かな報告も控えて来た、だから校長がしたのは、祈りの後、普通に苛めることの帽子をその夜スピーチしただけだった。彼はちょうど或る男子の親から苦情を受け取ったばかりだと僕達に打ち明けた;どれほど彼が密告者やハウスの出来事の外部干渉好ましく思わないか、同時にそれを明からさまにしながら。僕の名前は話題に上らなかったが、休日でもない日の僕の両親の訪問は論評を興奮させた。僕は止むを得ずこのままここに居続け、密告者として扱われざるを得なかった。今、上級の学校に在籍しているから、僕は僕自らの勉学に勤しんでいる。ところが勉学は仕舞い込めず、僕のものは何時も残骸に向かうばかりだった。ぼくはもう普通のハウスを部屋が変わっても使うことさえできなかった。不使用のシャウア‐バスに僕の運動着を移転した。あの時僕の心は狂った、そして校医は、これ以上フトゥボールをする必要はないと決定を下した。僕の最後の頼みの綱、精神錯乱に見せかけることに思いがけずかなり成功した。まもなく誰も、僕と僅かな接触も避けること以外、困らせなくなった。 
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2024年3月22日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅶ

二年目の途中、僕は僕の母親に彼らが僕を連れ去るしかないと打ち明けるために書いた。理由はもうカルトゥジオ修道会の暮らしに耐えられなくなった:ハウスは僕がいられなくなり、必要とされもしないということ、それを分かり易くした、僕は彼らに詳しく内緒で伝えた、僕の要求を真剣に彼らに受け入れて貰えるように;ところが彼らはこの秘密を尊重しようとしなかった。彼らの宗教上の義務、僕が彼らに書いた全てについて校長に通知すべきだろうと信じている。彼等でさえ彼らがどうすればいいのか僕を疲れさせてはいなかったのか;しかし僕を訪ねることや祈りや信仰を説くことで彼ら自身満足した。僕は全てを耐えなければならない、と彼らは言った、の目的のために・・・僕は正確には何かを忘れてしまったーおそらく僕の経歴。
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2024年3月21日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

 G.H.レンドール、カルトゥジオ修道会のその時の校長、校長会議で無邪気に言ったことを報告されている:「「僕の男子達は色っぽいがイラティク(エロチック)ではない。エラタシズム(エロチシズム・好色)のほとんどの事例は、実際、気が付かない;僕のカルトゥジオ教会で僕の期間5、6の大きな騒動があっただけだと僕は覚えている、それに追放は稀だった。校長らは彼らの寮内で何が進行しているかについて彼らの生活の は男子からかけ離れていることをほとんど知らない。しかし僕はレンドールの色っぽさ(それによって彼はより若い男子らと心情的恋愛に陥ることを意味した)と、また官能性、或いは思春期肉欲との相違には賛成する。しばしば起こる性的関係は年上の男子と彼の愛情の対象との間に実に稀にあったーそれはロマンティクな幻想を台無しにした―しかしほとんど何時も恋愛中ではない同年齢の男子らの間には、それでも便利なセクス、互いに手先を使った。つまりその雰囲気は伝統的な初期ヴィクトリア時代の形式、皮肉な言葉と淫らさによって複雑にした。
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2024年3月20日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 寮のマニタ(モニタ)は秩序を守り、寮の倫理を保護することになっているが、どんな下級生間の苛めの場合でも決して干渉しなかった。僕は暴力的な抵抗を試みたものの、公算としては何時も僕に対して深刻、この悪ふざけを単に促されただけだった。完全な無抵抗の抵抗はおそらくもっと賢明だったろうが。僕はカルトゥジオ修道会でのただ僕の最後の2年の間だけは卑猥な話にも慣れはした、それに僕が頑なになって侮辱に同様な手段で答えることができるようになる前、ある期間兵士になったりした。
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2024年3月19日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

他方ではそのハウスのフレンチ(フランス人)の男子が大変な人気を博した、協議ではみすぼらしかったが、国王エドゥワド7世は親善協商努力を徹底的に行った。僕のハウスのかなりの反ユダヤ教感情がその立場を悪化させた:誰かが僕は単なるジャーマンではないどころか、ジャーマンユダヤ教徒だという伝説を始めた。
 もちろん、僕は何時もアイリシュ(アイルランド人)だと主張したが、僕自身よりそのハウスに約一年か半年長くいたアイリシュの男子はこの主張に腹を立てた。彼はわざと僕を傷付けようとした、悪意のある乱暴な行動、僕の教科書にインクを投げたり、僕の運動着を隠したり、背後の隅から突然僕を攻撃したり、夜、僕のベドゥに水をこぼしたりすることのような、によってだけでなく、僕の上品ぶった様子に彼の卑猥なヒューマ(ユーモア)を繰り返し強いることによって、また僕の嫌悪感を笑うために皆を招待することによって。彼はまた僕の偽善や隠された堕落のヒューマラス(ユーモラス)な伝説を築き上げた。僕はほとんど神経衰弱になっていた。学校の倫理は僕のことを僕の寮監に僕が知らせようとするのを妨げた。
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2024年3月18日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕は単なる性行為について何も知らなかった、学校の会話の中にところかまわず言及される性行為の数多くの事細かな点を放って置いた、僕はそれに対して嫌悪感を持つに至った。僕は走って逃げたかった。
 全ての中で不運な無力さは、僕の名前が「R.フオンR.グレイヴズ」として学校のリストゥに出現したからだった。僕は僕のセカンドゥ・ネイムが「ランカ」になることをこれまで信じて来た;「フオン」、僕の出生証明書で発見し、僕を狼狽させた。カルトゥジオ会修道士らは彼らのセカンドゥ・ネイムについて秘密裏に行動した;そして普段は装飾的なものを隠すために管理した。単音節語やイングリシュとして「ランカ」で通しても何の疑いも持ちようがなかった、しかし「フオン・ランカ」は眩しく輝いていた。ビズナスマン(ビジネスマン)の子息らは、この頃、ライク(ドイツ)との貿易戦争、その脅威、その必要性を熱く議論したものだ。「ジャーマン(ドイツ人)」は「卑劣なドイツ人」を意味した。それは意味した:僕達の立派な産業に肩を並べつつある「安い粗悪な商品を」。それはまた軍隊の脅威、プラシュアニズム(Prussianism)、使えない哲学、飽き飽きする学問、音楽‐愛好、そしてセイバ(サーベル軍刀)鳴らしを意味した。僕のハウスのジャーマン・ネイムを持った他の男子は、但し出生や養育によってイングリシュは、僕がそうされたのと同様の扱いを存分に頂戴した。
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2024年3月17日日曜日

Good.-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  僕の二学期にその悩みが始まった。多くのことが当然僕の不人気の後を押した。その上給費生であり、試合で目立って活躍しないなど、僕は何時も小遣い銭が足りなかった。僕は学校の売店で仕舞い込むために僕の同期生扱う社会的習慣に従えなかった、僕は彼らの取り扱いを受け入れられなかった。僕の衣服は、学校の模範に外見上合致しながらも、既製品で、他の男子ら全てが着ていた最高のー品質の布地ではなかった。たとえそうだとしても、僕は彼らの中で最高の物を何故作るのかを教えられたことがなかった。僕の母も僕の父もどちらも服装の細部にどんな敬意も払わなかった、そして僕の長兄はこの時までに海外にいた。僕のハウスの他の男子のほとんど皆、5人の給費生以外、ビズナス(ビジネス)マンの子息だった:彼らの関心や偏見の階級を僕は何も心得ていなかった、専門職の階級の男子なら今まで会ったことはあるが。また、僕は彼らの好意を求めて随分多くを語った。その上無能なことに、僕がそうするように僕の母が計画した通りの取り澄ました純粋さのままでいたからだ。
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2024年3月16日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 カルトゥジオ修道会での僕の最初の瞬間から僕はその溢れんばかりの強烈さに思い出すことを躊躇う魂の抑圧を被った。じゃがいもに囲まれたあの冷え冷えとしたラフツアンの地下貯蔵室にいるような何か、何れにせよ余計者にして別の袋からこぼれ出た一つのじゃがいも。その学校はおよそ600人の男子から成った、彼らの主な関心は試合やロマンティクな交友関係だった。誰もが学業を軽蔑した;給費生らはウィンチェスタかイートゥンのように単身寮建物に集められなかった、しかし10人で分かち合い、プロウ(プロ)の者として知られた。試合で活躍し、給費生ではない者達より彼らは更にずっと学業を嫌っているように見せかけることができた、そして譬え何時彼らの勉強でこうし者達を手伝うよう求められても準備ができていて、彼らは何時も不面目な機会を持った。僕はたまたま勉強好きだった給費生ではあった、教室の無気力状態は僕を驚かせ、落胆させた。僕の最初の学期、僕はほとんど一人で残された、新入生は、励まされも誘われもしないという決まりその存在。その他の男子はめったに僕に話しかけなかった、使い走りに僕を送り出す以外、或いは学校の慣習の違反を冷ややかに指摘するため以外。
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2024年3月15日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

そして更なる20年の時間の中で僕達はこの会話を忘れるだろう、僕達が間違っていたということを、そしておそらく誰もが、2、3の犯罪的な例外を持ちながら、まずまず平均してきちんとしていた、そして言う:『僕はあの時未熟な愚か者だった、不可能な完全を言い張るばかりで、』やがて僕達は僕達の息子たちを感傷のためにカルトゥジオ修道会に送るだろう、そうして彼らは僕達がやったことなら何もかもやってのけるだろう。」
 これは僕の旧式の学校への攻撃と解釈されてはいけない;それは単にその時の僕の気分の記録に過ぎない。疑いなく、僕は、公立学校が備えていると宣伝されている厳しい経験と人格訓練についてまるで評価していなかった。そして典型的なカルトゥジオ会の修道士は最近僕に意見を言った:「学校の道徳的な傾向はあの当時からすると跡形もないほど改善しました。」しかしそうとは言えそれは必ず身に着くだろう。
 実を言うと、僕は5年後までアクスファドゥに進まなかった、1919年に僕の弟チャールズ、僕自身より4歳若い、は既に大学構内に住んでいた;それで1926年まで
僕の学位を奪わなかった、その時までに僕の弟ジャンは僕に追いついてしまった、僕自身より8歳も若かったのに。
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2024年3月14日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 「正しい」僕は彼に伝えた。
 「僕の神よ、」彼は言った、突然僕の方を向いて、「僕はその将来性には耐えられない。何か僕とアクスファドの間に差し入れればいいんだ;僕は少なくとも全休暇中に洋行するぞ。」
 3ヶ月はさほど長くはなかった、僕が思うほどには。僕は海へと走り去ろうという漠然とした考えを持った。
 「君は受け入れるのか、」ネヴルは僕に尋ねた、「僕達は主としてラトゥン(ラテン語)やグリーク(ギリシャ語)に僕達の生涯の内の14年を費やしたところだ。完全に教えられもしないのに、同じことの更なる3年を僕達は、今、スタートゥしようとしているということか?」
 未だに僕達がカルトゥジオ修道会の僕達の最も悪いところを口にすると、僕には彼を思い出させた、或いは彼には僕を、僕はどちらか忘れた:「もちろん、厄介なのは僅かな与えられた時間で40か50人の内、誰でも必ず二人の実にきちんとした校長を、5、600人の内10人の実にきちんとした大学評議員を見つけるということである。 
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2024年3月13日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

最後に、場所を去るに当たって僕達の唯一の後悔は最終学年時に僕達はシクスス・フォーム(6年制の形態)のメムバとして僕達が満足することができるような状況では状況では二人共ほとんどなかったことだ。今僕達は二人共聖ジャン(ヨハネ)ズ大学、アクスファドゥ(オクスフォードゥ)に通っていた、そこは単にカルトゥジオ修道会の馬鹿騒ぎの繰り返しであること請け合いだ。僕達はそこでは新入生である、しかし当然心温かく公立学校的であることを拒絶しようとする、そしてだから僕達の部屋に侵入したばかりに僕達の機嫌を損ねたり、誰かを傷つけたり、僕達自身を傷つけられたりするように強制されることの愚かさに直面する。そこにはおそらく僕達が僕達の三年目に達するまでどんな平和もないだろう、僕達が今と同じような立場に舞い戻る時、また僕達の予備学校でのあの最終学年と同じような立場に再び戻りつつも。「1917年に」、ネヴルは言った、「公的印証は全てのこの陰鬱さの上に押されるだろう。僕達は僕達の学位を得る、そしてそれから何かひどく嫌な職業で再び新人の男子としてスタートゥしなければならない。」
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2024年3月12日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅵ

戦争の勃発の一週間前、僕が去ったその日を思い出すことによってカルトゥジオ修道会スクールについての僕の報告を僕に始めさせてください。僕はその時その学校の上席ネヴル・バーヴァと僕の気持ちを話し合った、最初に僕達はそこには多分更にずっと代表的な公立学校があったが、僕達はそう思い込まない方を選んだということに同意した。次に、どんな可能な解決策も見つけられるはずがないということ、理由はそれを壊すには伝統があまりにも根強く、誰かが学校と職員全てを解任し、全てもう一度で直さなければならないだろうから。しかしこれが十分でなかろうと校舎は公立学校精神として何が合格したのかを印象付けられつつも僕達は根本的な弊害として何かを感じた、それらは破壊されるしかないだろう、やがて学校はどこかに違う名前で再建した。
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2024年3月11日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 しかしこんなことは山登りでは珍しくない。僕の友人ジョージ・マラリは、実例を挙げると、エヴァリストゥ(エヴェレスト)山の頂上に接近した後姿を消した、嘗てスノウドンで不可解な登山をしたことがある。彼は岩棚の上にパイプを置き忘れた、ライウッドゥの絶壁の一つを下る途中に、それを取り戻すために早道を這って後退した、それから再び同じルートゥでよじ登った。誰一人彼が彼がどんなルートを選んだのか見ていなかった。しかし彼らが公式記録のために翌日それを調べに来た時、彼らは道筋の至る所にほとんど張り出しをを見つけた。登山家クラブの登山のルールではそれらの考案者に敬意を表して記名されれるだけではなく、ありのままの姿を記述する。例外はここで作られた。登山は次のように記録された:「マラリのパイプルートゥ2上の異形;隣の地図を見よ。この登山は総じて不可能である。それはひとたび成し遂げられた、落ちてゆく日の光の中、G,H,L,マラリ氏によって。」
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2024年3月10日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼女は高所では頭が痛くなったが、彼女は危険な場所に登ろうとする僕達を制限することはなかった;それに僕達は怪我をすることもなかった。僕自身高所のために頭が痛くなること、僕はそれを克服するために計画的に、苦しくても僕自身をなだめ導いた。僕達はハレックの城の小塔や塔に何時も登って行った。僕は我が身に関しては僕の恐怖心を無視することや分散することに必死で務めた。高度への単純な危惧は先ず克服されなければならなかった。
 僕達のハレックの屋敷の庭の採石場的顔は、一つや二つの簡単な登る所を提供した、ところが徐々にもっともっと難しい所を考案した。僕の隠されたそれぞれの新たな成功と、共に休もうとする、神経質にぴくっと動きながら、頂上で安全な草地の草の中。一度僕は僕の足場を岩棚の上で見失い、命を奪われるところだった;何れにせよそれは僕が宙に足場を間に合わせに作ったかのように思えたので、そこから安全な方へ我が身を蹴り上げた。僕は後でその場所を調べた、僕はジーザスの悪魔の誘惑を思い起こした:岩から我が身を投じる解放感、そして安全な所に戻される
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2024年3月9日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 これがアイアランドゥだった、僕達は自ら意識的にアイリシュ(アイルランドゥ語や地元の伝説を学ぶべきだった;しかし僕達はアイアランドゥに行こうともしなかった、嘗て僕が腕の中で乳児だった時以外。その代わり僕達はより純粋にウエイルズを知りたくなった、地方の伝説にしてはあまりにも古い歴史を持つ地として;そこを散歩しながら僕達は僕達自身を作り上げた。僕達は立っている石の下に誰が埋められて眠るのか、誰が壊れた丸い小屋の宿営所に住んでいたのか、谷の洞窟の中のどこでその大きなナナカマドは育ったのかを決定した。僕達のジャーマニへの訪問中、素朴な人間の様子に僕は母国という意識を呼び覚まされた、しかしハレックの上に僕は歴史とか地勢に無縁な独自の平和を見つけた。僕自身として初めて僕が書いた詩はそれらの丘に纏(まつ)わるものだった。(グレイヴズとして僕が書いた初めての詩はカタラスの風刺文の一つの翻訳だった。)
 僕達の多忙で心ここにあらずの父は僕達子供のことを心配しなかった;僕達の母は心配ばかりした。しかし彼女は朝食後直ぐに丘に消えても僕達を許した、僕達が夕食時間後、随分経って帰宅しても大した文句も言わなかった。60

2024年3月8日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕達にウエイルズ人の血は全く入っていない、僕達はウエイルズ語を学ぶことに誘惑をほとんど感じなかった、自らウエイルズ人を装うことなどさらさらなかったが、全く地勢学的ではない地域としてその地方を知っていた。僕達が会ったどの羊の飼い主も僕達の私生活に侵入するような気がした。クラリサ、ロウザリーンそして僕は一度最も遠い丘から離れたところ、一日中人っ子一人見かけなかった。ついに僕達は滝に辿り着き、その畔(ほとり)の岸に横たわる二匹の鱒を見つけた;10ヤードゥ離れた所に釣り人が立って、イバラの藪から彼の釣り糸の縺れをほどいている。彼は僕達を見なかった、そこで僕は静かに魚に忍び寄り、白いベル‐ヘザ(ヒース)の小枝(それを僕達はその午後見つけた)をそれぞれの口の中に入れた。覆いをかけて大急ぎで戻った、そして僕は尋ねた「僕達は見つかるだろうか?」しかしクラリサは言った:「いいえ、それを台無しにしないで。僕達は家に着いても二度とそのことを口にしなかった、お互い同士でも:おまけにその帰結を知らなかった・・・
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2024年3月7日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  この地域は(そしてどんな地域もそんな風ではないと僕は承知している)形式ばった自然とは無縁であるように思った。そこでは誰もがほとんど季節の通過に気付かない;風は何時も発育を阻害された草を横切って吹いた。黒い流れは一筋に走った、冷たい清らかな、黒い石の上。山羊(やぎ)は野性的できままだ、6フトゥ(フィートゥ)の石の壁をよじ登れるように(ゆっくりと、重たげで、煤だらけの羊毛の、ウイムブルダンの向こうの牧草地で太らせたサウスダウン種の群れとは違って)それに、休んでいる時も、苔で覆われた花崗岩のおかげでどこにでも撒き散らされた巨礫と簡単に間違われる。イシバミ、ナナカマド、発育を妨げられた樫やイバラ(棘)の藪以外、数本の木は、谷で育った。冬は何時も温暖だった、昨年のワラビや昨年のヘザーが来年の春まで姿を消した様子でずっと生き残っていた。僕達はほとんどどんな鳥も見なかった、時折り遠くで旋回するコンドルやシャクシギを締め出す;そして僕達が行ったどこもその丘の岩の骨組みは芝地の下1ないし2インチだけのように見えた。
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2024年3月6日水曜日

Good-by to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕達が年を重ねるに連れ、僕達は僕達の時間をますますそこに登って過ごすようになった、そうして海岸とその関連ではますます減っていった。これらの丘陵、そこには農場や小農場が時折あった、しかし誰でも一本道を横切ることも、また農場に近寄ることもなく、15ないし20マイルを簡単に歩けた。元々僕達は漠とした済(な)し崩し的許しを手に登った。メイス‐ワイ‐ガーンドゥに近い丘の上にブルーべりを;或いはグウローイライエンではグランベリを探して;或いはカステル・トウメン‐ワイ‐ムーアによって破壊されたロウム人の別荘の中のロウマン床下暖房タイルの破片(それらの上に未だに陶工の親指‐印のある)、或いはアートゥロ上流の土手の金鳳花(きんぽうげ);或いは隣の山並みで丘の最大級ライナグ・ファアの裏に生息した野生の山羊(やぎ);或いはクムバイケン湖近くの茂みからのラズベリ;或いはロウム人の足取りの北には距離のある、名もない丘からの白いヘザ。しかししばらくすると、僕達は単にそれらの丘を訪ねて行くだけになった、訳はその辺りがあちこち歩きまわるのに適していたから。彼らのペニー‐質素な分かり易い特性は僕達をバヴァリアン(バイエルン)・アルプスの2ペンス‐色付きの品質よりずうっと喜ばせた。その頃の僕の最高の友人、僕の妹ロウザリーンは僕自身より一つ上だった。
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2024年3月5日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 春や夏ごとに、もし僕達が嘗てそうしたようにジャーマンまたはフランスをたまたま訪れなければ、僕達は北ウエイルズのハレックに出かけた。僕の母はそこに家を建てていた。自動車網が北ウエイルズに達する以前、ハレックは実に閑静な所でゴルフセンタとしてもほとんど知られていない。そこは三つの地域から成る。まず、田舎そのもの、百フィートゥ登って険しい丘陵の連なり上へ:スレイトゥ屋根と不格好な窓と破風のある御影石の家、7か8の異なる宗派の礼拝堂、比較的小さな村近く、市場の中心をそこに作るには十分な店、それに城、僕達のお気に入りの遊び場、二番目モーファ、海が引いたそこから平らな砂地、このゴルフリンクを作った地域;それにしても北に僕達が春にはチドリの卵をよく探した野性的田舎地帯を横たえる海岸はゴルフコースに最適、何マイルにも亘る硬い砂、安全な海水浴、かくれんぼ用の砂の小山。
 三番目の地域はゴルファや数人の夏の訪問者達によってさえめったに尋ねられることはなかった、村の背に当たる岩の丘陵地帯。
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2024年3月4日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

それからそこに上の方に捻れた口を持つ兄弟いました、そう!それに下の方に捻れた口を持つ妹が、そう!そして彼らはそれを順繰りにやってみました、そう!そしてそう!そして永遠のにっこり笑みで捻れたその口を持つばかな赤ちゃん、そう!最後にメイドゥ、完全な形の口を持つコウプンヘイガン(コペンハーゲン)出身のきれいな女、彼女の靴でそれを消しました、そう!パタパタパタ!」

 これらの引用は僕が、書く者として僕の母にどれだけ恩恵を受けているか、それを明確にする、彼女もまた「真実を話すこと、そして悪魔を恥じること」彼女のお気に入りの聖書の勧告は続いた:「我が息子よ、たとえ汝の手が何を探り当てても、汝の全力でそれを遂行しなさい。」
 僕は何時もウインブルダンを不適切なところだと考えた:町とか田舎とかどちらということもなく。家は僕の母の「在宅」日、水曜日にその最悪になった。僕達は僕達の日曜日に、応接間でケイクを食べるために服を着せ、下に降りた、キスをされ、礼儀正しく振舞わされる。僕の姉妹は暗唱しなければならない。クリスマス近くに、ジャーマンスタイルで祝った、一ダズンも或いはそのくらいの子供達のパーティガ巡って来る;僕達は興奮して自らの仮病を装うとする。僕はウイムブルダンのことを考えたくない。
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2024年3月3日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 三つの格言と僕の母のお気に入りの話:

 「子供達、私はお前達に命令します、お前達の母として、お前達の手で物を掻き回さないで。ハノウヴァの国王はビードゥ(ビーズ)財布を揺らしてたら彼の眼が飛び出た。」

 「子供達、私はお前達に命令します、お前達の母として、お前たちが二階にろうそくを持って行く時は気をつけるように。ろうそくは小さなカプ一杯の獣脂です。」
 
 「そこには前に男がいた、フレンチマンで、その人は悲嘆にくれた挙句死んだ、それは彼が決して母親にはなれなかったから。」

彼女はろうそくの明かりで何時もお話をしてくれた:

 「そこには昔シュレスヴィ・ホルスタインで暮らしている小作農の家族がいました、そこの人々は皆歪んだ口を持っています。或る夜彼らはろうそくを消したくなりました。お父さんの口は左に捻じれました、そう!そして彼はろうそくを消そうとしました、ところが彼は直ぐにろうそくの前にどころかどこにも立ちません。ですから彼は吹きに吹きました、それでもそのろうそくを吹き消すことはできません。そしてその後、お母さんがやってみました、ところが彼女の口は右に捻れました、そう!そこで彼女は吹いてみましたそう!すると彼女は自尊心が高過ぎて直ぐにろうそくの前にどころかどこにも立ちません、そして彼女は吹きに吹きました、ところがろうそくを吹き消せなかった。
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2024年3月2日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

どんないかがわしい瓶にも彼女はとりあえずレイベル(ラベル)を貼り直そうとする:「これはアルフレドゥの古い腱膜瘤の膏薬」或いは:「ストウリクナイン(ストリキニーネ)疑問符?」猩紅熱とかとてつもない咳用に処方された特別な薬まで保存してあった、再感染の場合には、精力的なレイベル(ラベル)貼り、彼女は僕の学校の賞品の一つに書き込んだ;「ラバトゥ・ランカ・グレイヴズはその学期の学業と二度目の試験で彼のクラスで一番の賞品としてこの本を獲得した。彼はまた神学の特別賞を、クラスの中で、最年少にもかかわらず、獲得した。彼の愛情溢れる母記、エイミイ・グレイヴズ。夏、1908。」自家製ジャムは上手に文書にされて必ずテイブルに着いたものだ。一つの小さな容器は示した:「グースベリ、レモンとルーバーブ(ダイオウ)小さな商店グースベリ補充ーネリ、煮返し。」
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2024年3月1日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

できるだけ多く戦争の話題を遠ざけた;神が戦争を許すということ、それはどのように説明すべきか、それが難しいとよくよく承知しつつ。ボーア戦争は僕の子供時代の初めを曇らせた:フィリプ、僕の兄、(彼は自分のことをフェニアンと呼んだ)、また自らをプロウ(支援)‐ボーアとも呼び、彼と父との間の朝食‐テイブルでの大変な緊張を僕は覚えている、彼の政治的な見解は決して極端ではなかった。
 ウイムブルダンの家の最終的な売却はかなり多くの問題を解決した。僕の母はどんな物でも捨てるのを嫌がった、それが最も遠い出来事における、どんな人に対するどんな奉仕であろうと可能な限りかまわなかったんだもの、25年後、がらくたは高く積み上がった。薬の棚はおそらく家の中の最もおしゃべりな場所だった。誰もそれを散らかっているとは言えなかった;びん全てに栓があった、しかしあまりにも混ざり合って置いてあるので、僕の母以外誰も、彼女には長い思い出があって、そのものを戻すところが分からなかった。数年毎に、疑いなく、彼女はそれらを端から端まで点検した。
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2024年2月29日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 それらは僕がワーズワースの友人として触れたことがある僕の同名の人によって僕の父に遺言で残された古風な学者の蔵書から成っていた、しかし彼はフェリシア・へマンズと遥かに思いやりのある友情を交わした;これに僕の父自身の本の所蔵を加えられた、アングロ・アイリシュ文学のための特別な戸棚の中はほとんど詩;
僕の母によって寄贈された祈りの著書;教育の本は内閣の学校でそれらを使うことを勧めたいという願いで出版社によって僕の父に送って来た;それに小説と冒険本は僕の兄や姉によって家の中に持ち込まれた。僕の母は、その命を人の奉仕のために捧げる発明家や医者、また木のてっぺんへと奮闘する貧しい少年達、そして彼ら自身の模範を作った成人のような男達の物語を僕達によく話して聞かせた、彼が一般大衆に公開した実に美しい庭を持つ高王の寓話もまた。二人の学生が入って来た;そこで一人は、僕の母は彼女の声にわずかな嘲(あざけ)りを持たせて彼について話した、チューリプ‐苗床にさえ時折雑草を見つけた;ところがもう一人は(そしてここで彼女はがらっと明るくなった)ごみの山の上にさえ美しい花を見つけた。
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2024年2月28日水曜日

Goog- bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  彼女は心配して僕達の読み物を検閲した。僕はたとえ立派な人でなくても、少なくとも善良な人になるよう定められた、僕達の楽しみは教育的か美的かだった:キュー王立植物園、ハムプタン・コートゥ、動物園、大英博物館か国立歴史博物館へ。僕は僕の母が大英博物館の宝物部屋で、僕達にこれらの素晴らしい物は皆私達の物だったのよと晴れやかな眼差しで僕達に話していたのを覚えている。僕達はびっくりして彼女を見た。彼女は言った:「そうよそれらは一般大衆の一員としての私達の物よ。私達は私達が好きである限り、それらを褒めることが、それにそれらを学ぶことができる。もし私達がそれらを家に持ち帰っても、私達はよりよくすることはできない、その上、それらは盗まれるかも知れない。」
 僕達は多くの子供達がそうするよりもっと本を読んだ。そこには全部で4、5千冊の本がその建物の中にあるに違いいなかった。
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2024年2月27日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

Ⅴ 

僕は僕の生活のかなりの部分をウイムブルダンで送った。僕達はその家、公有地に近い大きな一軒を処分しなかった、終戦後しばらくは;未だに僕はそこで起こった重大なことのほとんど、それどころか何一つ思い出せない。しかし11か12歳の後、僕は何時も寄宿学校にいて、その田舎町で夏の休日を過ごした、そう僕はクリスマスや他の休日の始まりと終わりに1日か2日だけウイムブルダンを見た。ランダン(ロンドン)は離れた所にあった、しかし僕はめったのそこへ行かなかった。僕達は劇場に連れて行かれたことが一度もなかった、パンタマイム(パントマイム)にさえ。そして戦争の最中までに僕は僕の人生でまさしく二度劇場に行った、それでその時は叔母の好意で単なる子供達の劇に。僕の母は真面目になるように、何らかの実際的な道で人のためになるように僕達を育てた、しかしその卑劣さ陰謀と淫らさのどんな暗示も僕達に許さなかった、その純粋さを信じることはそれらに対する最も確かな防護になるだろう。
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2024年2月26日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

どんな家庭内のことでも最後の決断は何時も僕の父次第だった。僕の母は言ったものだ;「二人一緒に乗馬をすれば、一人は後ろに乗るしかないのよ。」僕達子供は上手にジャーマン(ドイツ語)を話さなかった;僕達の性や少数に当たる部分は振れ易く、僕達はゴスイック文字も筆記体文字も読みたくて学んだことはなった。それでも僕達はジャーマン(ドイツ人)の意識はかなり根強く、僕はフレンチ(フランス語)よりジャーマン(ドイツ語)がはるかによく分かると思う、僕がイングリシュを読めるのとほとんど同じ速さでフレンチを読めはするが、ジャーマンだけは非常に苦労が多くゆっくりと辞書の助けを借りる。僕はその二つの言語に対して僕の心の違う部分を使う。もし僕にずっと今後ともそれを話す理由がなければ、フレンチはいとも簡単に忘れられる上辺だけの習得だ。
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2024年2月25日日曜日

Godd-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  ロウクビ・スクールの校長、彼は僕の運動靴を忘れたために僕を閉じ込めた、ジャーマン(ドイツ)文化を愛し、学校に関するこの思いを心に留めさせた、つまり僕がジャーマンを話せてジャーマニーを訪れたことがあるという僕の名誉にそれは立ちはだかるかの如く。僕の他の予備スクールではこのジャーマンとの結びつきは少なくとも何かしら許され、それにおそらく興味深くさえ思われた。ただカルトジオ会修道院だけは、それはフェンス越しの社会として位置づけようとした。14歳からの僕の歴史はカルトゥジオ会修道院に行った時、終戦の直前、僕が僕自身のために考え始めた時、僕の中にジャーマン人についての強いられた拒絶がある。僕は何時も憤慨してアイリシュ(アイルランドゥ)だと言い張り、父の計算づくの民族意識だという専門的な指摘に、僕なりの自己擁護の立場を取った。もちろん僕もまた事あるごとに完全な家長制度を容認した、女を上回る男の当然の優位を確信させた。僕の母は「愛、名誉、そして服従を」文字通り契約書を受け容れた;僕の姉妹らは男の子達を彼女自身で求めるように育てられ、女の参政権という考えには驚かされた、それに随分高額だから彼女達の兄弟同様の教育を期待することはなかった。 
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2024年2月24日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

ミュニック(ミュンヘン)、僕達が不気味だと気付いたービアと煙草の煙の嫌な臭気、それにレスタラントの食事中の一心不乱の音;路面電車や汽車内の暑いほど装った、異常に膨れ上がった人の数;凶暴な役人達。そこに、子供達が訪れることを許されなかった、脅えさせるだけの遺体安置所。死んだどんな名士も遺体安置所に連れて行かれた、彼らは僕達に告げた、予(あらかじ)め椅子に収めて、一両日の間、威厳を持って座っているように。もし軍司令官、彼が彼の軍服を身に着けていたら;或いは市長の妻、彼女が彼女のシルクと宝石を身に付けていたら。糸は彼らの指に結ばれ、たった一本の糸のほんの僅かな動きで大きなベルの音を鳴らすだろう、もしも全ての後、死体に少しでも生命が残っていたら。僕は一度もこれの真実を確かめたことがなかった、しかしそれは僕にとっては十分真実だった。僕の祖父が死んだ時、およそ一年後、僕達の最後の訪問、僕は遺体安置所で彼を写真に写した、彼のもじゃもじゃの白髪、彼のモーニング・コウトゥ、彼のストゥライプのズボン、彼のシルクハトゥ、手袋、それに彼の傍らのテイブルの上の杖を。してみる、夜夢の中で、生きていることに;しかし彼は死んだと思い知るばかり。
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2024年2月23日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

片隅に出入り口によって塞がれた暗い穴があった:家から荒廃した修道院への秘密の通路、一マイル離れたーそう僕達は教えられた。僕の叔父達は一度ちょっとだけ下ってみた、しかし空気が悪くなって、彼らは引き返した;出入口は他の者達がそれを試して彼らの意識を失わないようにするために上げたままにした。そう思うのなら来てみなさい、彼らは多分僕達をからかっていた、そしてその穴はgarde-robeの底に導いたーそれは中世の地下収納庫にふさわしい洗練された名称だ。
 僕達が僕の祖父と一緒に車で外出すると、僕達が通過するそれぞれの村の主だった名士達によって彼は「こんにちわ、教授!」喝采と共に迎えられた。それは何時も九柱戯のレーンやバヴァリアンの国の色、青や白のある床屋のポウルのように紐で縛られた背の高いメイポウルのある大きな酒場にあった。林檎や梨の木々がどの道にも並んでいた。こうした保護されていない公の果樹の考えは僕達を驚かせた。僕達には何故どの果物もそこに残っているのか理解できなかった。ウイムブルダン公用地では馬の‐栗の木でさえ棒切れや石で叩き落された、栗の木は熟すずっと前に、精力的な公用地の番人を無視して。
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2024年2月22日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

農園労働者は興奮して野性的になった;彼らの内の一人は彼の親指で魚の内臓を取り、それを生で食べた。僕はまた鉄道の駅の間の屋根のない貨車の列を思い出す、2マイル向こう、と煉瓦作業場。その地域は工場と駅の間に100につき多分1の落差があったから、イタリアンらは何時も煉瓦と一緒に貨車に乗り込んだ;彼らの内の選抜隊は懸命な一押しをして20ないし30ヤードゥの間、押しながら貨車と一緒に走った;その後、貨車は皆から離れて滑るように進み、ひとりでに駅へと下った。
 僕達は莫大な干し草の納屋の樽木に登って、弾力のある干し草の中に飛び降りることが許されていた;僕達はジャムプの高さをだんだん上げて行った。空中で僕達の内側が僕達より後に残ったと感じる、それはワクワクすることだった。一度僕達はラフツアン地下貯蔵室、通常のビア地下貯蔵室ではなく、他のものは中庭からその中に下りた、それにしても小さく細長い窓を除いて真っ暗。ジャガイモの大きな山が床の上に横たわった;光に向かってそれは長く白い触角の捻じれた集まりを出した。
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2024年2月21日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼らは家における召し使いより更に低く位置した、イタリアン居住地向けとして、家から半マイルに定住した、僕の祖父は彼の煉瓦工場用労働力として彼らを輸入して来たー僕達はその歌「森のジプシ」を念頭に彼らと付き合った。僕の祖父は或る日工場中を案内し、イタリアンポレンタの一欠片を僕に味見させた。僕の母は後に僕達に話したーウイムブルダンのミルクプディングが焼かれてテイブルに来るや否や、満を持して僕達は不平を言ったー「貴方のお爺様の煉瓦作業場のあの貧しいイタリアの人達はあの人たちのポレンタを何があっても焼くのよ、時々、本気で味の変化を探したりしてね。」
 ラフツアンの農場の建物の向こうに大きな池が横たわっていた、アイアリス(アイリス)と溢れんばかりの鯉で縁取っていた;僕の叔父達は3、4年毎にそれを網打ちした。嘗て、僕達はワクワクして見守った、そんな時、僕達は浅瀬の一角にもっと近くもっと近くへと手繰り寄せられる網を見ては叫んだ。のたくる鯉やその間で転げ回る大きな川鱒(ます)共々それは膨れ上がった。僕は手伝おうとして強引に割って入った、すると6匹のヒルが現れた、黒いゴム管のような、僕の足に吸い付いた;塩がその尾状の物の上に掛けられるしかなかった、それがやってしまおうとする前に。
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2024年2月20日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 そしてここの上に僕の従兄ウイルヘルムー後に僕の学校‐仲間によって空中戦で撃ち落とされたーはエア‐ガンで何時間も鼠(ねずみ)を狙い撃つと何時も嘘をついた。
 バヴァリアン(バイエルン)の食べ物は僕達が何時もイングランドゥへの僕達の帰還を忘れるほど豊かさと香ばしさがあった。僕達はライ麦パンを、濃い松の蜜、ラズべリ‐ジュースと一緒に作った巨大なアイス‐クリームのプディング、雪のおかげで氷の‐家での冬季間保存した僕の祖父の鹿肉、蜂蜜ケイク、ペイストゥリ、そして特に様々なマシュルームの種類がいっぱいのソースを愛した。プレツル、砂糖煮の人参、クランべりとブルーべりの夏のプディング。果樹園、家の近くの、で僕達は僕達が好きなだけ林檎、梨、それにグリーンゲイジ(西洋スモモ)をいっぱい食べてもよかった。庭の茂み、そこには更に列をなした黒スグリやグースベリがあった。その所有地は僕の祖父の保有権が最も新しいにもかかわらず、彼の自由主義、それに近代農法における彼の試みは、封建的なままだった。その貧しく汗まみれで野蛮な見かけをした農園使用人、彼らは僕達が理解の及ばない訛りを口にしては僕達を驚かせた。
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2024年2月19日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

それは金かも知れない;封印された瓶の中のトウモロコシの蓄えによく似て、或いは或る種の武器ーグリーク(ギリシャ)火薬、おそらく。僕がオウフセスの者や彼らの執事について知っていることから、その容器は嘗て彼らの骨董の中のよりましな
ものを持って来た、そこは想像を絶する。霊は城を歩いた、「赤い騎士」として知られた元男爵の霊、彼の恐ろし気な肖像画が、僕達のベドゥルームに導く小塔梯子(はしご)段を上る途中にずらっと掛けてあった。僕達はフェザ‐ベドゥに僕達の人生で初めて眠った。
 ラフツァン、僕の祖父が買って破滅した状況から復活させた、はオウフセスの持つ伝統には肩を並べることはできなかった。そこは、暫(しば)しバヴァリアン(バイエルン)国王の狩猟用山荘ではあったが。今なお二つの霊はその場所と共に歩んだ;農園の労働者達は頻繁に彼らを見かけた。その内の一つは、馬なしで猛然と漕いでやって来る乗り物だった、自動車の時代の前、真近に迫る恐怖を広めた。子供の頃から晩さん会のホールに出かけもしないで、その実寸を思い出すにしてもそれは難しいと僕は気付く。それは大聖堂と同じ大きさのような気がした。ステインドゥグラスの家紋の窓があり、剥き出しの床板がテイブルと椅子の小さな島々のある四隅に備え付けられているだけ;燕(つばめ)が天井の側面に沿ってずっと巣の列を築き上げて来た。
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2024年2月18日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  彼らは僕達に野生のロウズ‐ベリで作ったジャムまで出してくれた。それを彼らは「ヘッチ‐ぺチュ」と呼び、僕達に、狭く、厚い壁で囲まれ、のろ(石灰塗料)を塗った要塞のてっぺんの部屋の中の鉄の容器を見せたー巨大な容器、ドアの2倍の大きさで、明らかに部屋の中で作られた、それは矢の細長い穴の他には一つの窓もなかった。それは二つの鍵を持ち、12-或いは13世紀の仕事に違いなかった。城がこれ以上ないほど極度な危険に陥らなければ、それは解放されるべきではないと伝統は判定を下した。男爵は一つの鍵を用いた;彼の執事とその他の者。その容器は両方の鍵を使うことによってのみ開けられるはずだった、が誰一人内側に何が置いてあるのか知らなかった;推測すること、それは縁起でもないと見做された。もちろん僕達は推測した。それは金かも知れなかった;封印された瓶の中のトウモロコシの蓄えにもっとよく似ている、或いは或る種の武器ーグリーク(ギリシャ)火薬、おそらく。
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2024年2月17日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  叔父ジークフリードゥは独特なヒューマ(ユーモア)のセンスを持っていた。或る日僕達子供は庭の小径で小石を食べている彼を見かけた。彼はあっちへ行けと僕達に言ったが、もちろん僕達はそのままじっとしていた、腰を下ろして同じように試しに小石を食べてみた;子供達は小石を食べるもんじゃないと実に真面目にひたすら諭されるだけだった:僕達は僕達の歯を折ってしまう。一つ二つ試した後、僕達は同じ意見になった;つまり彼は残りは皆まるで同じように見える小石を僕達めいめいに見つかったのだ、がそれは簡単に潰れて真ん中にチョコリトゥがあった。これでは、僕達が行ってしまうと彼のつまみ食いとぼりぽり噛むのを見逃すことになる。僕達は戻ると、日が暮れても、僕達は探しに探した、それなのにただ普通の堅い小石だけしか見つからなかった。彼は一度も冗談で僕達をへこませようとはしなくなった。
 城の宝物の中には作るのに2年を要す赤ちゃんのレイスのカプがあった;それにワイングラス、僕の叔父の年老いた父親がフランコ‐プラシアンの戦いで見つけたそれは、すっかり破壊されたフランスの村の広場の中央に真っ直ぐに立っていた。
 夕食には、僕達がそこに行くと、僕達は相当大きな鱒(ます)を食べた。僕の父、経験を積んだ釣り人は、それは何処からやって来たのかと驚いて尋ねた。彼は、地下の流れが城の近くで溢れて、出て来た魚は、それはそれは真っ白くて馬鹿でかいサイズで、おまけに全盲だったと説明した。
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2024年2月16日金曜日

Good-bye to All That Robert graves 成田悦子訳

僕達は2、3マイル離れた孔雀農園を営む叔父達をよく訪ねた;そして大‐叔父、ヨハネス・フオン・ランケ、民俗学者、彼はティーガンズィーの湖岸に住んでいた、そこでは誰もが金鳳花(きんぽうげ)のブランドゥ(ブロンド)の髪を持つ;そして時折り、僕の叔母、オウフセス城の、アグネス、オウフセス男爵夫人は、汽車で何時間も離れた、バヴァリアン(バイエルン)・アルプス高く上った。
 オウフセスは、19世紀に建った、随分遠くに位置するので、それは奪われずに済んだ、何れにせよオウフセスの資産を以来ずっと留めた。その独創的な建造物へと、途中まで上るたった一つの梯子の入り口を持つ要塞、中世の城は書き足されていった。皿や甲冑といった宝物には驚くばかりだった。僕の叔父ジークフリードゥは僕達子供に礼拝堂を見せた;その壁はそれぞれオウフセス男爵のイナメル(エナメル)で塗った盾で飾ってあった、彼が結婚した高潔な家族の武器でそれを串刺しにした。彼は床の石の方を指さした、それは輪によって止めてあり、そこで言った:「それは彼らが死ぬ時オウフセスの者皆が行く所、一族の埋葬室だ。僕は何時かそこに寝るだろう。」彼は喜劇的に睨みつけた。(しかし彼は戦争中に殺された帝国ジャーマン(ドイツ)参謀の将校としてまた、僕は信じる、彼らは彼の死体を探さなかった。)
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2024年2月15日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕の母は僕達をジャーマニ(ドイツ)の祖父の家に僕の2番目と12番目の年の間に5回滞在するために、外国へ連れて行った。やがて彼は死んだ、そして僕達は二度と行くことはなかった。ダイスンホウフンに大きく古い領主の屋敷を所有した;ミュニック(ミュンヘン)から10マイル、名「ラフツァン」による、それは「立ち去れ、怒りよ!」を意味する。僕達の夏、そこには僕の性急な少年時代の最高の出来事が楽々とそのままあった。松林や暑い日の光、赤毛の鹿、黒と赤のリス一面のブルーべりや野イチゴ;9、10の食用マシュルームの異種、それを僕達は森の中に摘みに行った、野の見慣れない花ーミュニックが高く横たわるーそしてここかしこに生じる高山植物の露出;羊以外のあらゆる役に立つ動物のいる農園;僕の祖父のグレイの髪の後ろで、茂みの田園地帯を抜けて車で行く;そして滝の下のイザ川で水浴びをした。イザ川は緑色に輝き、イウアラプ(ヨーロッパ)の最も速い流れだそうだ。  
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2024年2月14日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 そこで僕はクリキトゥ(クリケット)で真っ直ぐなバトゥ(バット)を持ち続けること、高い道徳観念を持つことを学んだ;5番目の間違ったラトゥン(ラテン語)の発音の間違いを、それに僕の簡単な計算をする5番目か6番目の方法を習得した。そうしたことは僕をタプ(トップ)クラスにし、僕は奨学金を貰ったー実際に。僕はその年の最初の奨学金を獲得した。カルトゥシオ会修道院で。また何故カルトゥシオ会修道院なのか?・・・と・・・の理由で。カルトゥシオ会修道院は唯一の公立学校で、その奨学金試験はグリーク(ギリシャ語)の文法試験問題を含まず、初見のグリークやグリーク作文で十分手厳しいものの、僕は・・・と・・・を月並みに活用できなかった。しかしこれらの二つの動詞に向かって、僕はほぼ確実にウィンチェスタの実に特異な雰囲気に消え入りそうだった。
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2024年2月13日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼はカプソーネで5、6年過ごしたー11人で試合をしたー公立学校で最高位の奨学金を手にした、運動競技の栄誉で上席の男子になった、オクスフォードゥで奨学金を勝ち取り、更なる運動競技の栄誉をーそして立派な学位をーそしてそれから、彼はどうしたのか?謂わば彼はこれほど典型的に優秀で、正常な人間だったのだ、彼は当然のように教師として彼の懐かしい、型通り優秀な予備学校に舞い戻り、彼はそこに何年かいて、変化を要する今、彼は彼の懐かしい公立学校で教師の職を申請している。もし彼がそれを得て2、3年後舎監になれば、彼は遂に、僕が想像するに、校長になり、何れオクスフォードゥでなじみの大学の頭として次のステプを獲得するだろう。それは、昔のままの典型的に優秀な予備スクールの類だ。
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2024年2月12日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

休日から学校への帰還に関しては、家‐そのものから学校‐そのものまでの変化‐あらん限りの、は一瞬の内だ、ところが逆の過程は少なくとも2週間を要す。予備学校生は、彼の監視を逃れた時、彼の母を「どうか寮母、」と呼びかけ、何時も主人のように「サー」としてどんな男の親戚にも、或いは家族の友人にも声をかける。僕は決まってそうした。学校生活が現実のもので家庭生活は幻と化す。イングランドゥでは、統治階級の両親らは、事実上およそ8歳くらいからあらゆる彼らの子供達との肉体的接触を保てなくなる、そして学校生活の中で家庭的感情を仄めかす彼らの側のどんな試みも怒りを買う。
 次に、僕はカプソーネヘ向かった、サセクスの典型的に優秀な学校。その校長は僕の年齢で僕を認めることを渋った、よりにもよって、あんなひどい最近の経緯(いきさつ)のある学校から来たんだもの。如何に一家の文学的結託が策略を講じるか、校長は、仮に彼が僕を困らせたところで、僕は奨学金を勝ち取り得ると見た。僕の気落ちした様子は、僕が着いたその瞬間を締めくくった。僕のずっと年下の弟チャールズはこの学校まで僕の後をついて来た、ウイムブルダンの全日制の学校から連れ去られるように;そして、その後、僕の最も年下の弟ジョンは家から直接そこに通った。その学校がどれだけ立派で型に嵌っていたかは、ジョンのケイスに垣間見(かいまみ)えるはずだ。誂(あつら)え向きの善行、僕が言う通りの、正常な人間、彼は家庭からそこに直接通った。
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2024年2月11日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

ラシュ氏は非常に体重の重い人だった、彼は何時も机に向かって立った、それが直角に曲がるまで彼の親指に寄りかかっていた。学校を引き継いだ2週間後、彼は彼の不注意で汽車から転落した、そしてそれが彼の最期だった;しかし学校は未だ生存中にしているように思えた。僕は時折り追悼の飾り窓やミニチュアライフル射撃場などのために同窓生基金に寄付するよう頼まれる。
 僕はここで先ず第一にラガ(ラグビー)を習った。この学校で何が僕を最も驚かせたか、せいぜい12の男子が、彼の父と母はインディア(インド)にいた、彼らは突然カララ(コレラ)で二人共死んだということを外電によって聞いた時のことだった。僕達は揃って何週間後も同情して彼を見守った、深い悲しみが消えることを、或いは顔に黒みが差すことを、或いは何かその場合に合ったことをするよう彼に期待しながら。未だに彼は動揺していないように思えた、彼はそのことを自覚していないように見えた、そして原因があるとしたら誰もが彼と敢えて悲劇を話し合おうとはしなかったからーらしく振舞ってみたり、彼が以前して来たまさにその通り悪ふざけをするだけで。僕達はそれは寧ろ醜悪と気付いた。しかし彼は彼の両親に2年間会わなかった;予備学校生は家庭生活から完全に分離された一つの世界に住む。彼らは異なる語彙、異なる倫理システム、異なる声さえ持つ。
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2024年2月10日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 イングリシュ予備や公立学校ロウマンスは必然的に同性愛的だ。反対側の性は侮(あなど)られ、何かしら淫らなものと見做した。多くの男子は未だこの倒錯から引き返さない。同性愛的に生まれた人皆のために、少なくとも10の永続的な疑似的‐同性愛者らは公立学校のシステムで作られる:これらの10の内の9は見事に純潔で感じ易かった、僕がそうであったように。
 僕はウイムブルダンの通学制の学校を退めた、何故なら僕の父が勉強の基準が公立学校の奨学金を貰うに足りるほどのレベルではないと判断を下したから。彼は僕をラグビで他の予備スクールに送った、そこの校長の妻はたまたま古くからの文学仲間の姉妹に当たった。僕はそこが好きではなかった。そこには何人かの年長の男子がどうした訳か気味の悪い秘密を分け合う校長についての秘密があった。誰も今まで僕をその中に入れる者はいなかったが、彼は或る日教室に泣きながら入って来て彼の握り拳でその頭を叩きながら、そして呻きながら:「神の前で私はあんな事をしようなんて気はなかった!神の前で私はあんな事をしようなんて気はなかった!」僕の父は僕を突然遠くへ連れて行った、一週間後。その校長は、国を出るのに24時間与えられた、2番目の精通者によって後が継がれたー善良な人物、彼はなしで済まされないあらゆる句を排除することによってイングリシュをどう書くかを、どこでも可能であれば形容詞の代わりに動詞や名詞を使うことを教えた。それに新しい段落を何時始めるべきかや、「O」と「Oh」の違いを心得ることを。
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2024年2月9日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の人生のこの部分からの別のぎょっとするような経験。僕は嘗て僕の姉妹を学校のお手洗いで待つしかなかった。彼女達はウイムブルダン・ハイ・スクールに通った。僕達は一緒に写真に撮られるつもりだった。僕は手洗いの隅で多分15分くらい待った。僕は、10歳にはなっていた、すると少女達が行ったり来たりした;彼女達は皆僕を見てくすくす笑い、互いに囁きあった。僕は女学校の手洗いに座っている男子だったんだもの彼女達は僕を嫌がっていると僕には分かっていた;そして僕の姉妹は、彼女達は到着すると、僕を恥じている様子で、僕が家で知っている姉妹達とは全く違っているように思えた。僕は秘密の世界の中でまごついた、そして何ヶ月、そして後に何年もの間、僕の最もひどい悪夢はこの女学校についてだった、それは何時も色のついた風船でいっぱいだった。「まさにフロイディアン(フロイト派)」、今では誰しも言う通り。僕のノーマルな衝動は何年も遡ってこれらの経験によって整えられた。1912に、僕達はブラスルス(ブリュッセル)で僕達のクリスマス休暇を過ごした。同じペンションに滞在しているアイリシュの少女は成り行きで僕に恋をした、僕は今は分かる、それは実にこの上なく甘やかだった。それはそれは随分僕を驚かせたので、僕は彼女を殺したってよかった。
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2024年2月8日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

ラニと呼ばれたペンロールの少年は僕が今まであった最も素晴らしい英雄だった。他に誰も登るはずのない松の木のてっぺんの小屋と、彼が盗んだ草刈り釜の先端で作った大きなナイフを持っていた、彼はパチンコでハトを殺し、それを料理して木の小屋でそれを食べた。ラニはとても優しく僕に接した;彼は後に海軍に入った、彼の初めての航海中に脱走した、二度と噂を聞くこともなかった、と僕達は打ち明けられた。彼はよく野原で牛や馬に盗み乗りをしていた。
 ペンロールで僕は「チェヴィ・チェイス」や「サー・アンドルー・バートン」バラドゥがその中に載っている本を見つけた;そこには僕が読んだことを覚えている初めての二つの実在の詩があった。僕はそれが如何に優れているかを見た。しかし一方では、少年全員が裸で入浴する屋外のスイミングプールがあり、僕はその光景に恐ろしさによって克服するのを感じた。19歳の或る少年は赤い髪、実に醜い、アイリシュ、彼の体を覆う赤い毛を持っていた。僕は体に毛が生えるということを知らなかった。また、校長には幼い女友達を連れた幼い娘がいて、僕は彼女達に会うたびに恐ろしさで汗を掻いた;なぜなら、兄弟がいないので、彼女達は一度僕達が庭のヒッコリーの木を掘り起こそうとしていた時、僕のシャートゥの首から下を詳しく調べることによって男の解剖学的構造について見抜こうとした。
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2024年2月7日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

という訳で、そう、下品な言葉の連発だった。やがてその巨大なホールに圧し潰されると思った、とんでもない少年達、廊下のぎょっとするような騒々しさ、そして誰も僕にそのルールを口にしない強制的なラグビ・フトゥボール。そこから僕は通常タイプのロウクビに行った、同様ウイムブルダンの、そこに僕はおよそ3年間いた。ここで僕は真剣に勝負をするようになった、喧嘩っ早く得意気で、威圧的になり、賞を勝ち取った、そして物を集めた。僕というものと他の少年達との唯一の違いは、僕はスタムプの代わりにコインを集めたというところだった。僕にはコインの価値は絵空事ではないように思えた。校長は一度だけ僕を禁固した:僕の運動靴を学校に持って行くのを忘れたために、その時僕の手の上に二撃ち(鞭)もくらわさなかった。にもかかわらず今でさえその記憶は憤りを伴って僕を熱くする。僕の紳士としての真剣な訓練はここで始まった。
 僕は一校を除外したように思うーペンロール、ランバートの後ろの丘を真っ直ぐの。僕は以前家から離れたことがなかった。僕は一学期の間、まさにそこへ行った、僕の健康のために。ここで僕は僕の初めての鞭打ちを食らった。その校長、一介の教区牧師は、座部の上に僕を禁固した、何故なら僕は間違って或る日曜不適切な特祷を覚えたから僕は宗教で力付くの訓練に至ったことは前には一度もなかった。僕の女教師学校で僕達は特祷を学んだ、しかし間違いのために罰せられなかった;僕達は賞を目指して競った。家に持ち帰り、僕達のベドゥの上に吊るす装飾版。
29

2024年2月6日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅲ

6歳になると、僕は幾つかの予備スクールに行った。いの一番はウィムブルダンの女教師学校だった、しかし僕の父は、教育専門家として、僕をそこに長く居させる気はない。彼は20-3-時間割の大変さに一日悲鳴を上げている僕に気付いた、併(あわ)せて僕達が使った質疑‐と‐応答の歴史書にも不満を示した、それは始まった:

問い:なぜブリトゥン(英国人)はそうよばれたか?
答え:なぜなら彼らは彼ら自身を青色に塗ったから。

更に、彼らは僕にメトゥラノウムに合わせて暗算をさせた!僕はこの拷問の下で神経症を患い、一度自ら小便を漏らした。そこで僕の父は、僕をキングズ・カリジ・スクール、ウィムブルダンに僕を送った。僕はちょうど7歳になったばかりで、そこでは最も若い男子で、彼らは19歳になろうとしていた。僕の父は2学期の後、僕を連れ去った、なぜなら僕が下品な言葉を遣っているのを耳にしたから。僕はラトゥン(ラテン語)を始めた、が誰もラトゥンが意味するのは何か説明しなかった;その語形変化と活用は、僕には全く呪文でしかなかった。
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2024年2月5日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕の母はロウマン・カサリクの恐怖を僕に教えた、僕は随分長くそれを忘れなかった。実は、僕がその倫理よりも成長してしまったからではなく、そのカサリクの原理の恐怖にプラタスタンティズムを放棄した。僕の宗教鍛錬は恐怖故に大きな能力を僕の中で開発したー僕は絶え間なく地獄の恐怖にひどく苦しめられたー迷信的な道義心や性的困惑、それらから僕は僕自身を開放すること、それは非常に難しいと気付いた。彼らが信じるのを止める時、プラタスタントゥが失う最後のものは、完全な人間としてのクライストゥの洞察力だ。それは何年もの間、感傷的に、僕と共に存続した。18歳の時、僕は「荒野にて」と名付けた一編の詩を書いた、身代わり(他人の罪の犠牲者)を出迎えているクライストゥについて、それが不毛の地を彷徨うに連れーそれは、もちろん、身代わりが何時もそのレビ人(ユダヤの神殿で祭祀を補佐したもの)の参加者らによって断崖の向こう側に押されてから不可能になっただろう。「荒野にて」は少なくとも、70の選集に掲載された。不案内な人々は何時もどれだけの心強さをそれは彼らに与えたのかを言おうとして僕に対して書き、僕がですか、etc.?
27

2024年2月4日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

そうした荒れ果てた、人を寄せ付けないー様相のベドゥ、他の部屋の中のようにグラス(ガラス)の引き戸のある洋服ダンスの代わりに、色褪せた綿のカートゥン
(カーテン)を付けた吊るし‐食器戸棚。この不様さ全てが何処かほとんど人間らしさからかけ離れたように召使いのことを僕に思わせた。その上、僕たちの所にやって来た召使い達は、疑いなく平均以下の水準だった;特別、立派な推薦状を持たずに一家族12人の勤め口に応募するものだ。それに僕達はこんなに大きな家を持ち、所帯の独身者は彼の、或いは彼女の部屋をまず小奇麗にして置かない、彼らは何時も気が付かない。多過ぎる仕事量、彼らは言った。
 僕達の子守りは召使い召使いと僕達の所の間に1本の橋を作った。彼女は到着時、直ちに彼女自身のパスポートゥを僕達にくれた:「エミリ・ダイクスが私の名前です;イングランドゥは私の国です;ネザーラヴィオンは私の住まいのある‐所;そしてクライストゥ(キリスト)は私の救い主です。」僕達を「ミス」や「マスタ」と呼んでいたが、彼女はくだらない語調を全く使わなかった。現実的な点で、エミリは僕達の母より僕達にずっと近いところにいた。僕はおよそ20歳まで彼女を軽蔑しなかったー彼女はあの頃僕の弟向けの子守だったー僕の教育が今は彼女のものに勝り、僕が彼女と闘えば、僕は彼女を躓(つまづ)かせ、いとも容易く彼女に傷付けられるなと気付いた。更に、彼女はバプティストゥ・チャペルに通った;バプティスト派信徒らは、ウェスリー派や会衆派のように、イングランドゥの教派の中では劣勢であるということをその時までに僕は学んでいた。
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2024年2月3日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕は、宗教の教義を受け入れたのと同様、自然にこの階級分離を受け入れ、20年近く後までとうとうそれを捨てなかった。僕の両親は未だ嘗て攻撃的、彼らを撃墜せよタイプ、ではなく自由主義かもっと厳しく、自由主義的労働組合員だった。宗教的論理は、少なくとも、彼らは生き物仲間として彼らの雇用者を取り扱った;しかし社会的差別は依然として明確に定義されたままだった。賛美歌集はこうしたことを是認した:

彼は彼らを高貴にも卑近にも作り、
彼らの地所を命じた・・・

僕はよく彼女が、プディングの何かが残されたとしても食べられる、ということをメイドゥに告げ、或いは何らかの不注意のためにその料理を叱る時の母の声の調子を思い出すことができる。それは厳しさを強いた、途方に暮れてほとんど残酷ですらあった。僕の母は、生まれつき気楽であり、だろう、僕は信じる、一切召使なしで済ませたかった。彼女達は家の中で外国人の体のように見えた。僕は召使のベドゥルームを覚えている。彼らは踊り場の一番上にいた、家の最も活気のない側で、それに時代の慣習により、カーペトゥもリノリウムもないただの空間。
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2024年2月2日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

「オウ、」看護婦達は彼がいなくなった後、嘆いたものだ、「オウ、彼は彼らが連れ去った時、彼の可愛らしい白い外套を纏った幼い紳士に見えた!」「あの若いマシウ(マタイ)は正当なダンディだった。」幼い無産階級らを真似た病院での2ヶ月からの僕の帰宅で、僕のアクセントは強く非難され、病棟の少年達は実に下品だということを学んだ。僕は「下品」が何を意味するのか知らなかった;それは僕に説明されなければならなかった。およそ1年後、僕はアーサーに会った、9つの少年、彼は病棟にいて、僕達がどちらも良くなってからクリキトゥ(クリケット)の遣り方を僕に教えた。彼は結局ぼろを着た使い走りの少年になった。病院で、僕達は、同じ制度化したナイトゥガウンをそろって着ていた、それに僕はこんなに違う岩棚から出て来たとは知りもしなかった。ところが僕は不意に二種類のクリスチャンー僕達そのものと、更に低い階級があると僕の初めての上流気取りという戦慄と共に悟った。召使らは僕達子供を「マスタ(主人)ロバトゥ」、「ミス(嬢)ロウザリーン」、そして「ミス・クラリッサ」と呼ぶよう訓練された、それにしても僕はこうした名ばかりの敬意のようなものを認めなかった。僕は、単に他の人々の子供に呼び掛けることのために使われた呼びかけの接頭辞のように「マスタ」や「ミス」のことを考えていた;それでも今は、召使らが低い階級であること、僕達は「僕達そのもの」であるということに僕は気付いた。
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2024年2月1日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕は大いなる宗教の熱い思いを抱いた、それは16の年の僕の堅信後間もなくまで続いた、そして懐疑を思い出す、それと共に僕は初めてそこに実際は人々がいないということを耳にした、人々は僕自身のようにイングランドゥの教会の中で洗礼を施された、彼らはジーザスの神聖を信じなかった。僕はこうした長年ずっと不信心の人に会ったことがなかった。僕は、僕の知人の多くに尋ねたが、子供時代、また彼らが階級意識を持つようになった青年期に誰一人僕に納得できる答えを今まで僕にくれた者はいなかった。僕はそれがどのように起こったか覚えている。4歳半の年に僕は猩紅熱にかかった。僕の弟がちょうど生まれ、僕が家で看護されるはずがなかった、そこで僕の両親は僕を公的な猩紅熱病院に僕を送り届けた。病棟は20の幼い無産階級の人々を収容でき、僕の他に一人だけ中産階級市民の子供。僕は看護婦達や僕の患者仲間が僕に対して違った態度を取るということに特に気付かなかった;僕は親切も安易に甘やかすこともそれには慣れっこであることも容認した。しかしもう一方の幼い少年に与えられる尊重や崇敬、聖職者の子供は、僕を驚かせた。
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2024年1月31日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕達は頑強なモラリストゥになることを学び、自己分析と優れた決断力で僕達の時間の多くを費やした。僕の姉妹ロウザリーンは彼女の子供部屋の一角に活字の貼り紙を貼り出したーそれはまさに僕によって僕によって貼り出されたも同然と言ってもよかった:「私は言ってはいけない『胸をどんと叩け』も『豚死』も、それは失礼だから」
 僕達は実にささやかなパキトゥ‐マニ(ポケットマネー)を与えられた1週間に1ペニ、12の年に2ペンスに昇給に伴い、叔父か他の訪問者から届いた臨時の収入はお金の一部分をバーネイドの養護施設や乞食に寄付することを奨励した、盲目の物乞いは点字で声を出して聖書を読みながら、ウィムブルダン・ヒルの舗装道路の上に何時も座っていた;彼は実は盲目ではなかったが、彼の目をひっくり返せたので、生徒達を瞼を下げる度に数分隠し続けた、それはわざとらしく煽ぎ立てられた。僕は度々彼に恵んだ。彼はお金持ちとして死んだ、そして彼の息子には大学教育を供与できた。
 僕がスウィンバーンの後会っていると記憶している初めての卓越した作家は、P.G.ウドゥハウスだった、僕の兄弟パースヴァルの友人、彼を彼は後に穏やかに「Ukredge」として風刺的に描いた。ウドゥハウスはその時二十歳になったばかりだった、ザ・クラブのスタフで、ザ・カプタン(キャプテン)誌に学校話を書いていた。彼は僕に1ペニを与え、僕はそれでマーシュメロウ(マシュマロ)手に入れるよう僕に助言した。あの時はあまりにも気後れし過ぎて、あれ以来僕は彼の仕事に関して批判的になることを自らに許さなかった。
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2024年1月30日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 極めて忙しい男になって行く僕の父、ランダンの(テムズ川)南岸方向に向かう学校の検閲者で、僕達子どもは休日の間を除いて彼について事実何も知らなかった。その時彼は非常に優しく振舞った、型通りの始まりと共に僕達にお話をした、「嘗て、或る時に」ではなく、しかし何時も「そしてそこで庭師は赤いパキトゥ(ポケット)ハンカチーフの上で彼の鼻を鳴らした・・・」彼は時折り僕達と一緒にゲイムをしたが教育の仕事で忙しくない時は、詩を書いているか、文学、或いは禁酒協会の会長をしていた。僕の母は、所帯を切り盛りすることで忙しく、また入念に僕の父の妻として彼女の社会的義務を果たし続け、彼女が心惹かれるに連れ、僕たちのことはそんなに面倒を見なくなった、日曜とか僕達が急に病気になった時以外。僕達には子守がいて、お互いに、この交遊だけで十分だと分かっていた。僕の父の僕達の教育における主要な役割は僕達の話が文法的に正しく、発音する言葉が正確で、それに俗語を使うことがないようにと強く求めることだった。彼は、宗教教育は全面的には母に任せた、彼は家族の祈りで取り仕切ったが、その奉仕者らは毎朝朝食前にそれに出席することを求められた。軽い罰は、早くベドゥに送られるか、或いは隅に立たされるようなそんなことは母の担当だった;スリッパで与えられた下士官の罰の苦痛に応対することはなく、彼女は僕の父に残して置いた。
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2024年1月29日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕の母は気前よく僕の父に嫁いだ、それは彼の5人の母のいない子供達共々最後まで彼を助けるように思える。僅かでも彼女自信を持つことは二の次だった。しかし先ず彼女は女の子を持ち、次にもう一人女の子を持った、そしてもちろん彼女達を持つこと、それは実に素晴らしかったが、少し落胆した、というのも彼女は息子は事実重要な事を成し遂げるという世代と伝統に属した;それから僕が現れた、五体満足の健康な子供。彼女は僕の誕生の時40歳だった;そして僕の父は4-9歳。4年後なおももう一人息子を持った。女を上回る男の切望さるる優勢は立証されて来た、そうして5の2倍は10になった。僕は僕の両親と僕の間二つの世代の相違は一世代の相違より橋を架けることが比較的簡単だと気付いた。子供達は彼らの祖父母とめったに口論しない、10人の家族は親らしい愛情の希薄を意味する;構成員らは区別がはっきりしなくなりがちだ:僕はたびたび呼ばれた、「フィリプ、リチャドゥ、チャールズ、」僕はロバトゥのつもりだ。
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2024年1月28日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

フォン・ランカの者は人間の公益事業のためにもっと責任のある仕事ができるように宗教的な信用としてジャーマニ(ドイツ人)の該当する階級の会員資格を重要視する。最近フォン・ランカは映画撮影所に加わった、家族はそれ自体不名誉だと思った。
 僕が僕の父の家族の側のーおそらくグレイヴズ家によりチェイン家にもっとー恩恵を受けている最も有益で、同時に、最も危険な贈り物は、僕は何時でも役人と取引きをしたり、或いは、それを妬む公共機関から特典を得ている時、紳士の振りをすることができるということだ。僕がたまたま何を着ていても;それに僕の衣服は紳士が普段着るものではないから、それにまだ僕は芸術家にも女々しい男のようにも見えない、それに僕のアクセントゥや身振りは近付き易くはない、僕は公爵領に相続人として配属されていた、彼の地位のその完璧な信用がこのような奇抜さ全てを弁明するだろう。このように僕は、矛盾によって僕の兄の誰かよりずっと紳士であるように見えることもあり得る、彼は近東(地中海の東の諸国)で領事館員として長年過ごした。彼の洋服ダンスはあまりにも明確にほとんど紳士のものである、それに彼は評判の悪い知人を持つことや彼が実際意図することをあらゆる機会に言うことといった偽の公爵の特権を彼自身に許さない。
 僕の紳士であることというこの商売について:僕は僕の紳士教育の14年間随分多額を支払ったので、今もあの時も、或る種見返りのようなものを手にする資格を与えられたと僕は思う。
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2024年1月27日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

これらの合致は、僕が発見できる限り、全く不利益な目的に適う、そして会話の脈絡を聞き逃す耳の悪い人を悩ませる同種の不正直を犠牲者に齎しがちだー彼らは後に取り残されることを嫌い、直観に頼り、それををすっかり聞き取るためにはったりをかける。この無能ぶりは寒い気候に於いて最も狙われる。僕は今では総多くを語らない、僕が飲んでいる時、或いはフランスで僕と一緒に戦った誰かに逢った時以外。グレイヴズ一家は試練同様のこのような意図ならばと良い心がけでいる。上品なラトゥン(ラテン)語を認(したため)ては、用紙を埋め、謎を解き明かし、子供達のように、パーティに招くと、そこでゲイムを思い付き、知能‐テイストゥが演じられた、僕達は勝ち損ったことはなかった)。彼らはボール・ゲイム向きのよい視力と、優雅な気品を持つ。僕はその目を受け継いだが、気品は受け継がなかった;僕の母の家族は全く気品なしだ。僕は馬上で、醜くとも安全な座席を確保する。横柄との指摘、僕の母の家族が被害に遭わないよう心の善良さへの必然的な点検、に対して非感傷的であるグレイヴズ家の冷淡さがそこにある。グレイヴズ家が、一般論を言うこと、それは正当だ、彼らが属すブリティシュ統治階級への、また憲法への忠誠は、個人主義者だからこそ。
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2024年1月26日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

バッカスが満足に話せも
歩けもしない内に、
オリムパスに彼は飛び降りた
彼の子守の腕から。
そして10年は全体の中で
落下によって消耗されたが
彼は遥か遠くへ落ちて
もっと陰惨に谷を旅しても構わなかった

僕の母を娶り絶対禁酒者になった後、彼は何かしら自らの茶目っ気を失くしてしまったと言われる。
 僕の父は決して一般読者より高位に立たないという神聖な秩序を手に入れるために家族の誘惑に抵抗した;そして彼はアイアランドゥとの地理的結合を絶った、その所為で僕は彼に手放しで感謝することができない。僕の親戚に対して非常に厳しく、僕が他人と付き合うよりもっとずっと注意深い、僕は僕の父と母に感心してしまう:自らの簡素と粘り強さを求める僕の父、そして自らの真面目さと強さを求める僕の母。二人共自らの寛大さを求める。彼らは決して僕を苛めなかった、形だけの信仰から体格や全般的な特徴に関しては僕の母側が、全体的に、僕の中ではより強い。しかしそれらの大半は風変りなグレイヴズ固有の発言や動作の多くの癖を持つ。通りを歩いて真っ直ぐ下ることは難しいと気付くこと;テイブルで数片のパンを持ってそわそわすること;中途半端に通り抜けてそれらを未決定にのままにしている時、文にうんざりさせられること;背中の後ろで独特な方法で組まれた手で歩くこと;そして不意に話題になることや最もどぎまぎさせる完全な記憶喪失の綴りのような。
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2024年1月25日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の父が僕の母を知ったのは、それはこのクラリサ‐リーアポウルドゥ親戚関係を通じてだった。僕の母は、たちどころに彼に打ち明けた、彼女は、僕の父が主として思い出すがままにものを書くことへの讃歌、「父なるオウリアン」を好もしく思いますと。彼は伝統的なジグの旋律「The Top Cork Road」に言葉を載せた、それを彼は彼の少年期から覚えていた。サー・チャールズ・スタンフォードゥは設定のための数和音(数コードゥ)を提供した。僕の父は1ギニで完成した権利を売った。大酒飲み、出版社は何千も作った。サー・チャールズ・スタンフォードゥ、彼は作曲家として著作権料を構想した。また非常に多額を集めた。最近僕の父は蓄音機の権利ということで数パウンドゥ送られた。彼はこの全てが厭(いと)わしくはない、しかし僕のどんな仕事の完成した権利も宗教上ほとんど値を下げて売ろうとしないことを嘗てよりもずっと僕に印象付けた。
 僕の父が詩人であるということは、少なくとも、詩人へのどんな誤った敬意からも僕を救って来た。彼を知り、僕を知らない人々に僕が遇(あ)う時、僕は喜びさえする。食事の後食器を洗っている間、或いはエンドウの殻を剝きながら、或いは同じ折に触れて、僕は彼の歌の幾つかを歌う。彼は一度も僕に書き方を教えようとも、或いは僕の真面目な詩の解釈をしてみせようともしなかった;彼のものについてのアドゥヴァイスを求める準備が何時もそれ以上にできていた。僕に書くのを止めるように仕向けることもまたしなかった。彼の陽気な初期の仕事は最高だ。His Invention of Wine(彼のワインのインヴェンション)、例えば、それは始まる:
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2024年1月24日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

 クーパ―一族は常に取りつかれた家系で、アイアランドゥ人は自ずとアイアランドゥ人になる。ジェイン‐クーパ、僕の父が娶り、消耗性疾患(主に肺病)で死んだ。
 グレイヴズ一族はほっそりした鼻で、拗ねる傾向があった、しかし決して堕落しなかった、冷酷かヒステリック。粘り強い文学の伝統:リチャドゥについて、二流の詩人で、シェン・ストウンの友人;そしてジョン・タマス、数学家でサー・ウィリアム・ロウアン・ハミルトンの四元法算法の発見に貢献した;そしてリチャドゥは、グリーク(ギリシャ)の神学者で欽定講座担任教授;そしてジェイムズは、考古学者;そしてロバトゥ、彼は彼の後名付けられた、病を考案し、ターナー家の友人だった:そしてロバトゥ、古典学者、それに聖職者で、ワーズ・ワース家の友人;そしてリチャドゥは、もう一人の聖職者;そしてロバトゥは、もう一人の聖職者;で異なるロバトゥ達、ジェイムズ達、タマス達、そしてリチャドゥ達;そしてクラリサ、アイアランドゥの乾杯の一つ、彼女はリーアポウルドゥ・フォン・ランカを射止めた(ウィンダミア教会で)、僕の父と母が結婚する前、グレイヴズとフォン・ランカ二世代を結び付けた。(大英博物館目録18並びに19世紀グレイヴズ文学史の記録を見て下さい。)
 僕の父が僕の母を知ったのは、それはこのクラリサ‐リーアポウルドゥ親戚関係を通じてだった。
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2024年1月23日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の父は、それから、90年代初めに僕の母を或る時見染めた。彼は前にもアイリシュ、クーパの一人を娶(めと)った、リメリックに近い、クーパズ・ヒルの。クーパの者はグレイヴズの者よりアイルランド人的家系だった。その話は、クラムワル(クロムウエル)がアイアランドゥに来て、国を荒廃させた、モイラ・アブライアンは、最後の生き残りの偉大な氏族アブライアンのメムバ(メンバー)、彼はリメリック周辺の国の卓越した首長で、彼の所に或る日やって来た:「大将、貴方は私の父と叔父、私の夫と私の兄弟を殺してしまった。私はこの島々のただ一人の後継者として残されています。貴方はそれを没収するつもりですか?」クラムワルは彼女の素晴らしい存在感に心を打たれたことやこれは確かに彼の意図だと答えたと言われている。しかし彼女は彼女の島々、或いはそれらの内の一部を守り抜けたと、彼女が彼の将校達の内の一人を迎えるという条件で。そしてそこでアブライアンが一組のカードゥを選ぶために招かれモイラを娶る所有地の跡を継ぐという特権の為に切った。その勝者がエンサイン・クーパその人だった。結婚後2,3週、彼女自ら妊娠に気付いた。それは男の相続人だと確信した、実際それは判明した。彼女は彼女の夫を殺した。彼女は彼を酔わせた後、胃のへこみに命中すべく彼を蹴ったとそう言われている。
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2024年1月22日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 主教オウカンルは嘗て彼の家族の背格好について彼を冷やかしたことがあった、そこで僕の祖父は屋が詰まった彼の矢筒を持った男の祝福について原典を持って情け深く切り返した;それに対してオウカンルは簡潔に答えた:「昔のユダヤ人は、震えはひたすら6回を維持した。」僕の祖父の通夜は、彼らが言った、リメリックの町で今までに知っている最も長いものだった:それは大聖堂からオウカンル通りを真っ直ぐに下ってサーズフィールドゥ・ブリジの上に伸びた、僕にはアイリシュの彼方何マイルか分からない。彼は一人の子供として僕を祝福した、しかし僕はそれを覚えていない。僕の父の母についてアバディーンからチェイン、僕は、彼女は「実に美しい女性」で、アイアランドゥ軍への内科医大将の娘というその事実以上に何の情報もまるで手に入れることができなかった。僕はただ彼女か家族の会話の争いの中で何を語り、見過ごされてしまったかの大部分を断定できる。チェイン家系はサー・レジャナルドゥ・チェイン、スカトゥランドゥの宮内長官に不備の無い権利を1267年に返した。ずっと後の時代にチェインらは法律家や医者になった。何れにせよ僕の父は今のところ彼の自叙伝で忙しくしているし、疑いなく、この全てについて長々しく書くだろう。
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2024年1月21日日曜日

Good-by to All That Rpbert Graves 成田悦子訳 

最も強硬にマークされた一族の特性を持つ僕の親戚の者の無駄話は神経の無秩序にある。話が進むに連れ酷い話ではなく、何時も情報を提供してくれ、しばしば気も利いていて、ところがそれはどんどんどんどん発展する。フォン・ランカの者は機械の才能をそれぞれが殆ど持っていないように思える。内臓燃焼エンジンや電動発電機の時代の最中に生まれること、そういうものに共感できないこと、それは最高に迷惑だと僕は気付いた。自転車、携帯用石油コンロ、、そして軍用ライフル銃は僕の機械の受容力の限界を示す。
 僕の父系の祖父は、リメリックのプロテスタントゥ主教で、8人の子供達を持った。彼は非凡な数学家だったー彼は初め球状の円錐の或る理論またその他を公式化したーそしてその上アイリシュ裁判官法律やオガム文字アルファベトゥに関する主要な権威にもかかわらず、評判によって、寛大から遠のく。彼とオウカンル、カサリク主教は条件の極めて良い所で暮らした。彼らはお互いにラトゥン(ラテン)ジョウクを言った、学問の素晴らしい点を話し合った、そして非常に真面目に彼らの宗教の違いを受け容れることも全く聖職者らしくなかった。しかし僕の祖父の死後およそ19年、リメリックで、守備隊の兵士として僕は町民から彼の話を聞いた。
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2024年1月20日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 18の年に、僕の母はブリテインさんへの付き添いとしてイングランドゥへ行った、孤児として僕の祖母に助けられた孤独な老婦人、そうして17年間彼女の手足となって身の回りの世話をした。彼女はついに他界し、僕の母は、彼女の唯一の相続人で、その意志からそもそも利得を得ることはないだろうという老衰の印象の下、彼女には10万パウンドゥの財産があったということが判明した。お手本通り、僕の母は彼女の4
人の妹達のそれぞれに遺産を分配した、5分の1だけは手元に置いた。彼女はインディア(インド)に行こうと決心した、医療の伝道者としての短い訓練の後。この大望はやがて5人の子を抱えた男やもめ、僕の父を知る事で挫かれた;彼女は家庭伝道師分野でのいい仕事としてやって行けるだろうということ、それが彼女にも明らかになったのだ。グレイヴズ家は1485年にミルファードゥヘヴンにヘンリ7世と共に上陸したフレンチ騎士まで遡る系図を持つグレイヴズ大佐円頂派は一族のアイリシュ分家の創始者として承認を求められる。彼は嘗て負傷しテイムの市場で死へと旅立った、その後カリスブルーク城で国王チャールズ1世の要請を受けた、そして遅れて王党派になった。リメリックはこの分家の中にいた。その中の臨時の兵と医師らは主として担保だった;直通郵便網は教区司祭の序列を掌握した、首席司祭、そして司教、僕の曽祖父ジョン・クロズビー・グレイヴズ、彼はダブリンの国王直属警察裁判所判事だった。リメリック・グレイヴズはどんな「技能」或いは機械のセンスすらなかった;しかし座談家として広範な評判を得る。
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2024年1月19日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はそれによって何を言いたかったのか分からない、しかしそれは彼の怒った家長の雰囲気とも、枢密顧問官フォン・ランカ様としてバヴァリアン(バイエルン)社会で傑出した立場の容認とも、それに彼のカイザ(カイゼル)への忠義とも、一度か二度鹿狩りに行った誰かとも矛盾しない声明だった。それは、事実上、彼は彼自ら政治に於けるように宗教に於いてもかなり進歩主義者で、僕の祖母が気に病む必要はないと思ったということを意味する。僕は僕のジャーマン(ドイツ人)の親戚を賞賛する;彼らは高い信条を持ち、気楽で、寛大で、そして真面目だ。男達は安っぽい個人的名誉のためにではなく、公共の利益に於ける闘争に励んだー大声で叫んだ、例えば、彼らは恥ずべき優れた役人か政府高官の行いというものに異議を唱えたから。彼らの内の一人はシークレトゥ・サーヴィスのリポートゥのために手形交換所としてランダンの領事館を使うことを拒んだからドイツ領事サーヴィスの年功を失くした。彼らはどちらにしても大酒飲みではない。僕の祖父は正規の大学で、学生として「酔っ払い」、誰も見ていない時、彼の1840年乗馬ブーツの中に溢れるほどのビアを注ぐ習慣を持っていた。彼は、家では英語を話すよう彼の子供達をしっかりと導き、常に文化と進歩の母国としてイングランドゥに目を向けた。女達は高貴で我慢強く、彼女達は歩いて外に出ると、地にその眼差しを置いたままにするのが常だった。
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2024年1月18日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は娶(めと)った、ランダンで、僕の祖母を、小さな、清い、脅えたシュレスヴィヒ‐デイン、グリニジ天文学者ティアークスの娘。彼女の父が天文学に傾倒する前、ティアークス家は、そう思える、父と息子の間で代わるがわる職業に就くというデンマーク国のシステム、全て酷いものというわけではないが、に従って来た。奇数の世代はブリキ屋だった、そして偶数の世代は牧者だった。僕の比較的礼儀正しい特性は僕の祖母まで遡(さかのぼ)る。彼女は十人の子を持った;この内の最年長が、僕の母で、ランダンで生まれた。僕の父の無神論と急進主義は落ち着いた。彼はついにジャーマニ(ドイツ゚)に帰還した、そこで彼はミューニク(ミュンヘン)で、それにイウアラプで初めて彼の子供の患者用に清浄なミルクを要求した事でもよく知られた小児科医になった。彼は月並みな手段では病院に清浄なミルクを持って来ることはできないということに気付くと、彼は彼自ら模範酪農場を始めた。彼の不可知論は僕の信心深く、ルター派の祖母を悲しませた;彼女は彼のために祈ることを止めなかった。それにしても彼女の子供達の魂を救うことに殊更集中した。
 僕の祖父は全く罪深くない人で死ななかった;彼の最後の言葉は:「私の父である神よ、彼の人に少なくとも私は掴まっている。」
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2024年1月17日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は書いた、彼の同時代の人々の不祥事に対して:「私はクリスチャンである前に歴史家だ;私の目的は単にどのように物事が実際に起こったか探り当てることである、」そしてフランス歴史家ミシュレを論じながら「彼は或る様式で歴史を書いた、そこで真実が語られるはずがない。」タマス・カーライルは埃の‐ように‐乾燥したと彼を非難したということは全く信用しない。ハインリッヒ・フォン・ランカに、僕は、僕の不器用な豪放さ、忍耐力、精力、真面目さ、そして僕の厚い髪は負うている。彼は、青年時代は反抗的で無神論的でさえあった。医学生としてプラシュン(プロシアの)大学で彼は1848年の政治混乱に参加した、学生達は激しい反逆に向けての彼の試みの時にカール・マークス同様、彼らは国を後にしなければならなかった。僕の祖父はランダン(ロンドン)に来た、そして彼の医学コースを終えた。1854年に、彼は連隊の外科医として英陸軍と共にクライミア(クリミア)に向かった。僕がこの事について知っている全ては、これが、僕が子供だった時、彼が僕に用意したというチャンスだ:「最も強いのは必ずしも大きな体ではない。サヴァスクポウルで塹壕の中、私は大英連邦の守備隊が大破し、厳然たる事実によって死ぬのを目の当たりにした、しかし取るに足りない工兵らは何の被害も受けなかった。」今なお、彼の巨体は彼を上手に運んでいた。
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2024年1月16日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕は170パウンドゥ体重がある。僕の最高の喜劇的な回転は異常に自由に動く関節を持った骨盤だ:僕はテイブルの上に座り、それと共にファクス・シスタズ(Fox sisters)のようにトントン叩ける。片方の肩が明らかにもう一方より低い位置にある、肺損傷の所為。僕が腕時計を携帯しないのは、僕は何時も主ゼンマイを磁化するから;一つの指示が出たら、将校達は腕時計を携帯し、日常的に時間を合わせようとする、僕は毎月新品二つを買わざるを得なかった。医学的に、僕は望ましい生物だ。僕のパスポートゥは「英国の国民」として僕の国籍を提供する。僕はマーカス・アウリーリアスを真似てもいいだろう、彼は彼のゴウルダン・ブクを多彩な祖先や彼が尊敬に値するローマ皇帝の人徳の恩恵を受けている親類と共に着手する:何故私はローマ皇帝どころか、好機以外、英国紳士でさえないのか釈明しながら。僕の母の父の家は、ランカの出身、サクスン人国牧者であり、大昔には貴族ではなかった。リーアポウルドゥ・フォン・ランカ、近代歴史学の祖、僕の大叔父、「フォン(出身)」を持ち込んだ。僕は彼に何かと恩恵を受けている。
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2024年1月15日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕が初めてパスポートゥを取得した頃、1926年には便利なものだった、僕は「ライタ(作家)」と記入しようかと思った、しかしパスポートゥ役人はしばしばその言葉に複雑な反応をした。「大学教授」には通り一遍な反応を得る:下らない敬意。どんな質問もしない。そこでまた「陸軍大尉(恩給受給名簿)」と付加。
 僕の身長は6フィートゥ2インチ、僕の目は灰色、僕の髪は黒として与えられている。「黒」に厚くカールしていると付け加えられるべきだ。僕は誤ってどんな奇癖も持っていないと説明される。初めに、そこに僕の大きなワシ鼻がある、僕はサカ(サッカー)選手達と愚かにもラグビをしている間に移動式木造住宅でそれを折った。(僕は他の選手の鼻を同じゲイム中に僕自ら折った。)あれが、それを不安定にした、バクシング(ボクシング)はそれを斜めにした。ついにそれは未熟な陸軍外科医によって手術された、そしてもはや僕の顔の左と右側の間の縦方向の境界線として役に立たない。それは当然調和しないー際立ってすっかり歪められた僕の目、眉そして鼻、そして僕の頬骨、それはかなり高く、違う水準になっている。僕の口は何を知られているのか「ぽってりした」一物だ。そして僕の笑顔は口を結んだままだ:僕が13だった時、僕は前歯二本を折り、それらを見せる事に敏感になった。僕の手も足も大きい。
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2024年1月14日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 何れにせよ僕はシェイクスピアの読書サークルに言及した。それは何年も続き、僕が16だった時、好奇心は遂に僕をその集会の一つに送った。僕は、全く口やかましくない母が僕の愛想のいい父のペトゥルキオに口やかましい女の飼い慣らし(じゃじゃ馬慣らし)の中のカサリン役を読む、それに伴う快活さを覚えている。モーリス・ヒル夫妻はサークルの最も人気のあるメムバの中の二人だった。この集会は彼らが判事ヒル氏とレイディヒルになる前、何年も行われた、そうして、同様に、僕は、夢中になって「口やかましい女(じゃじゃ馬)」を覗いた。僕は、レマネイドゥグラス、胡瓜サンドゥウイチ、ペティフォ(プチフール・一口大のケーキ)、応接間の小さな装飾品、蜂のキク、そして日の周りの安楽椅子の半円を覚えている。ホーテンシオとしてモーリス・ヒルの優しい声は僕の父を説き諭した:「今はお前の道を行け;お前は忌々しいガミガミ女を服従させた。」僕は僕自身ルシオとして余興を終えた:「それは驚きだ、貴方の暇(いとま)乞いによって、あんなに素直になる。」僕は何時か離婚法廷の判事として彼の方針を彼が話すのを聞きに行かなければならない;彼の訓戒は有名になっていた。
 「草創の記憶」の後、僕はおそらく僕自身のパスポートゥ記述を述べるべきで、それら自体が項目を増大させる。誕生日…生誕地…僕は既にそうしたことを伝えた。職業…僕のパスポートゥに僕は「大学教授」と記してある。
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2024年1月13日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

僕はスペクテイタやパンチの僕の一筋縄ではいかない叔父チャールズを正確に要約した、それに僕の横柄な叔母グレイス、彼女は乳母車や男女の中に入って来た、そして彼女の到着が何時も大騒動を引き起こしたのは彼女は女性司教だったから;やがて僕の親戚の全員永眠。
 僕はアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンについてどんな幻想も持ち合わせていなかった、ウィンブルダン公園の片隅で、彼は度々僕の乳母車を止め、彼は子守の散歩中それに出会うと、その頭で僕を軽く叩き、僕にキスしたものだ:彼は慢性的な乳母車止め屋で叩き屋でキス屋だった。子守の散歩は「松林」、プトゥニー(彼がワッツ‐ダンタンと暮らしていた所)やロウズやクラウン居酒屋の間を縫って行った。ワッツ‐ダンタンは彼にその代金2ペンスを許し、それ以上はなかった。僕はそのスインバーンが詩人とは知らずにいた、ただ僕は彼が公の脅威であるということは分かった。スインバーンは、そのやり方で、まさに青年の頃、ウォルタ・サヴィジ・ランダに行ってしまった、それからかなり年寄りになって、彼が望んだ詩人の祝福を与えられた;そしてランダは子供の頃サミュエル・ジョンスンによってその頭を撫でられた;そしてジョンスンは子供の頃瘰癧(るいれき)、国王の邪悪;の所為で女王アンに触れられようとしてランダンに連れて行かれた、そして女王アンは子供の頃・・・
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2024年1月12日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅰ

自叙伝の慣習を受け入れる僕の心構えの証拠として、僕の二つの最初の記憶をまず僕は書きましょう。一番目は1897年の女王ヴィクトーリアのダイアマンドゥの祝典のために飾られた四輪馬車と幌馬車の行列を見物しようと窓辺で忠誠を示すかの如く持ち上げられたことだ(これはウィムブルダン(ウィンブルドン)であった、そこで僕は1895年7月24日に生まれた)。二番目は子供部屋の戸棚を一種絶望的な恐怖の念で見上げることだ、それは思いがけず開けっ放しになっていたりする、シェイクスピアの八折版本の巻で天井まで埋まっていた。僕の父はシェイクスピアの読書サークルを組織して来た。僕は、これがシェイクスピア入れだとずっと後まで知らなかったが、一見して、僕は既に応接間の行事に強烈な衝動を覚えていたようだ。つまり高名な訪問者達が家にやって来ると、かのシェイクスピアの博識を持ったサー・シドゥニー・リーのように、或いはロードゥ・アシュボーン、未だ貴族ではない、かの「アイアリシュ(アイルランド人)のためのアイアランドゥ(アイルランド)」という声高な話っぷりと、かの黄金色のキルトゥ、或いはイウステイス・マイルズ、イングリシュ現ーテニスチャムピアンにして、かの外来種ナトゥ試供品を供給するヴェジテアリアン、僕は彼らの事なら僕なりに何でも知っていた。
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2024年1月11日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 かなり多くの変更がここに本文中で為されたー数多(あまた)の退屈或いは馬鹿げた継ぎ接ぎの省略;2、3の伏せられた逸話;5年後書かれたより長いものによるT.E.Lawrence(ロランス)章の差し替え;誤った言明の事実に基づく訂正;そして僕の尤(もっと)もらしくぼろぼろの散文の全般的な編集。幾つかの固有名称は、そうした原作のごまかしがもはや要らない箇所では修復された。
 仮にどの一節が、この年月を経た後になお攻撃性を帯びているにしても許されるものならそうしてほしい。


デヤ、
マジョーカ、
スペイン。
1957

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2024年1月10日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 プロウログ

僕が或る処は書き、或る処は口述した、この本、複雑な国内危機最中(さなか)の28年前、修正にごくわずかな時間を費やし。あれは、僕がそれまでにかなり多くのしきたりを破って来たイングランドゥとの僕の苦渋の去るという選択だった;口論をするか、或いは縁を切られたりした、僕の友達のほとんどに;企てられた殺人の容疑に関して警察に厳しく尋問された;そして誰が僕の事をどう思おうと気に病むのを止めた。
 Good-bye to All Thatを何度も読む内に、1929年以来初めて、僕はどのように僕の出版社は名誉棄損の訴訟を免れたのかしらと思った。
 国内の危機は何時も高くつく、しかし本はイングランドゥでも合衆国でも十分よく売れた、不景気にもかかわらず、それはまさに僕の借金を払ったり、将来への差し迫った不安もなくマジョーカで暮らし書くために僕を自由にして置くのにあてがった。そのタイトゥルは標語になった、Bartlett’s Familiar Quotations(バートゥレトゥの語群引用)への僕の唯一の寄稿。
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1月10日、去年The Quiet Americanを翻訳し始めた時と同じ日からGood-
 bye to All Thatを訳し始めます。文庫本で上下岩波書店から出ています。一日文庫本で1頁ずつ訳しますから2年かかります。「成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたことhttps://naritaetuko.jpに翻訳の方針、岩波書店訳者工藤政司さんとの相違点の考え方などを毎日書きます。