Sinnò me moro

Amore, amore, amore, amore mio, In braccio a te, me scordo ogni dolore! Vojo resta co'te, sinnò me moro, Vojo resta co'te, sinnò me moro, Vojo resta co'te, sinnò me moro…  Nun piagne amore

Sinno me moro(Un maledetto imbroglio 刑事)

自己紹介 成田悦子毎日少しずつ主に英文学の過去の小説を紹介しています。私の遣り方は原文をそのまま生かし、イギリス人、イギリスという国そのものの文字を通した姿を過去に遡って見せ、貴方同様私が学ぶ

自分の写真
暑いし, リチウム電池入りロボ県内, Japan
GooNTTレゾナントは私のブログを4つ非表示にし、「詩を全部削除しろ」と詩人である私に言っています。

Gooは猥褻サイトの記事は問題がないと言います。私の住所・氏名・電話番号まで書き込んで「きちがい、前科三犯」と書くサイトの規約違反を指摘しても、「貴方は一体どうしたいのですか?」と言います。削除して欲しいに決まっています。そんなことも分からないのに、「鳥居正宏」という偽名の社民党員の要請で四つのブログを非表示にしています。私は「鳥居正宏」の中傷記事を書いたことは一度も無く、中傷されたコメントを載せたことが一度あっただけです。しかしそのコメントは、社民党と自公政権が不正に侵入して直ぐに削除して非表示の要請があった時にはありませんでした。あれから20数年Gooも消えます。私が消えていないことはいい兆し。正義は私の下にある。当面翻訳中心の生活です。

成田悦子翻訳小説.orgで翻訳中 「Youth 」Joseph Conrad, The Grapes of Wrath Jhon Steinbeck

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2011年7月10日日曜日

文学賞受賞は人を下りること

週間新潮七月十四日号で、
KDDIは、なかにし礼の「恥らう携帯」というショート・ショートを使って宣伝している。
KDDIauは、夫の携帯を殺害一ヶ月前購入したことにし、殺害後、夫の古い携帯を処分し、この購入したことにしている住所、履歴の削除に協力している。
夫のカードから引き落とし、更に私に対し携帯三万五千円以上を請求した。
私は二重払いであることを告げたが、auは支払いを命じている。
牛尾治朗を調べれば、KDDIが何をしているか、全て分かる。
この十数年のKDDIの顧客に対する非礼、顧客情報漏洩が、売り上げ激減、顧客激減に繋がっている。

「教える」という相手側の動作を表す動詞に、「お」を付け、「電話番号を、お教えください」と、この混乱した朝鮮半島・中国出身者、創価学会系芸能人・学者・文化人等発日本語混乱の状況下、言わないわけでもないだろうが、「教えてくださいますか?」と言った方が良い。
動詞に尾ひれを付けると、何になるか分かりますか?
貴方が、馬鹿だと思われます。
動作・作用・状態・存在を表す動詞に尾ひれである「お」を付けると、自分や相手の行なうことを茶化したり、曖昧にします。
動詞に「お」を付けると、相手の行動に対する「敬意」ではなく、「軽蔑」の表明になります。

なかにし礼の書いた「恥らう携帯」は、「お」、「ご」の多用が、如何に文章を間の抜けたものに見せるかを証明している。
「ちなみに携帯電話はお持ちですか?」と続く。
「持つ」に「お」はいらない。
「携帯電話を持つ」であり、「携帯電話は持つ」ではない。
・・は・・持つではない。
限定と強調の意味を表す為に「は」を使うことがあるが、この場合は、その例ではない。
「ちなみに携帯電話を持っていますか?」
「ちなみに携帯電話を持っていらっしゃいます?」
で良い。
ちなみに??・・・もいらない。
こういう単語は、相手に横柄な印象を与え、どう受け取られるか分かっていない人間が多過ぎる。

「では、受賞なさった時は店の電話に報告を入れます。・・・・」と続く。
「受賞の連絡がありましたら、お店に電話致します。」で良い。
動詞や名詞に「お」と「ご」を付けずに丁寧に話す訓練をすべきである。
相手に自分の意志と連絡事項を伝え、相手がその言葉を正確に受け止めることが大事である。

しかし、早稲田慶応東大阪大的、国際基督教大学的発想で会話や論議を進めてはならない。
「国際基督教大学の教授と生徒の会話は素晴らしい」、とテレビを見ている人がいると思ったら大間違いである。
「ばかみたい・・」と思って見られていることを、国際基督教大学とテレビ局は忘れているだろうが、忘れてはならない。
私がたまに見るのは、「今日はどんな馬鹿げたことを話合うの?」と いう気持ちからである。

「2000年度前期××賞に・・・・・決まりましたが、お受けになりますか?」
「お受けになる」と言うのは、止めた方が良い。
何賞か知らないが、この賞を授与する出版社のレベルの低さを表している。
「・・決まりました。」であって、「決まりましたが・・」ではない。
理由は、この・・・・という作家が、長い間××文学賞の授与を待っていたからである。
なかにし礼は、テープを起こして書いているわけではないだろう。
先ず、「2000年前期××賞受賞おめでとうございます」である。
次に「是非賞を受けて下さい」と言う。

それにしても可笑しいのは、受賞の確認をしなければならない程、文学賞を受賞したくない人がいるということである。
理由は、分かっている。
文学賞を受け取ることは、人を下りるということであるからである。

字数が決まっている。
編集者側、或いはスポンサーから挿入文字指定がある。
小説にも、エッセイにも、広告にも制約がある。
制約というものは、作家に対する規制ではなく、寧ろ自己の開放と成り得るものである。
如何にその商品を売るか?
売る為にどう書くか?
挿入文字指定を変更させることも、作家の力である。
より多く商品を売る為の言葉を作家自身が提供する、そうした作家がいるとは思えない。
作家は、商品その物の販売、品質向上に影響を及ぼすことが出来る。

ものを書く人間は、世界を変えることが出来ることを、皆忘れている。

12:06 2011/07/10日曜日