https://naritaetuko.jp成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたこと

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2011年7月3日日曜日

週間新潮新連載小説「アスクレピオスの愛人」

林真理子の週間新潮新連載小説「アスクレピオスの愛人」を読んだ。
文法上のミスは例の如く多数。
*島根の田舎の高校卒
*大阪の名もない短大卒
であることは恥ずかしい・・・
@医者の前妻
@医者の予備校に通学
することは尊敬に値する
と恥ずかしげもなく、平気で書く。

林真理子は、
何が人間として恥ずべきことで、何が恥ずべきではないことか、
何が恥ずかしくても為されなければならないことか、何が恥ずかしいことだからしてはならないことか、
分からない
小説書きであり、一体貴女は、「人としての恥」を何処まで書き連ねるのだろう?
これほど幼稚な発想の小説家が、「小説家です」と随分威張って言える文学???の世界が実際にあり、読者はなんて嫌味な人間のいる世界・・と驚いて口を噤んでしまう。
林真理子の本などまともに買うはずもない。
少し経つと百円の価値に下がる本を買う必要はない。
組織化された人間が買い求め、「ベストセラーです」と新聞、雑誌が書けば、何でもベストセラーになってしまうのが、出版の実情であり、ベストセラーは別の場所にある。
そして、真のベストセラー(聖書や池田大作の「人間革命」は組織的に勝手に買う、売るをしているだけで、ベストセラーに入らない)抜きでは、出版は滅びてしまう。
林真理子の本は、古本屋に山ほど並べてあるが、減らないのがトテモカナシイ。

「所為(せい)」と「お陰」という言葉がある。
原因や理由が何であるかを表す時に使う。
何かの「所為」である・・は、原因や理由が悪い結果を齎した場合、齎す場合に使われることが多い。
「私の詩を文芸春秋村木厚子が盗んだのは、文芸春秋の犯行声明で、麻生太郎、福田康夫、安倍晋三、鳩山由紀夫、小沢一郎、太田・山口公明党代表、池田大作創価学会、福島瑞穂が株不正売買と乳房、卵巣切断、私の耳に音声送受信装置、眼に、カメラ・映写機を挿入、文部科学省米子市教育委員会と今井書店が詩と絵を盗んで自費出版を没にし、犯行が表沙汰になることを惧れ、私を世に出したがらない所為なのよ」
といった時に使います。

林真理子は、「人並み以上の器量と運のせいだと素直に認めているところあった。・・・」と書いています。
この場合、「せい」ではなく、「おかげ」を使う方が分かり易く、文字の持つイメージ、文章全体のイメージを負の方向にではなく、プラス方向に持って行きます。
文章としては、プラス方向に持って行かなければならない箇所です。
それにしても、人並み以上の器量は人にとって大切ですか?
人並みでなくても、幸福に感じることは出来ます。
幸福であると思えば、何時でもどういう状態にあっても幸福です。
器量や運と僥倖(ぎょうこう)は関係がありません。
僥倖の意味は、思いがけない幸運です。
「私は幸せである」と感じることは、不運の只中に在る時も、思い、口にすることが出来ます。
人は、思うことによって、運を切り開くことが出来ます。
「~の所為だ」と思っていたのでは、幸福を感じる感覚さえ失ってしまいます。

「『・・・スイスに行くからいいよ。』というのが、どこまでれおなの本音かどうかわからない。

此処も意味が分かりません。
主語と述語、主部と述部を林真理子は分かっていないようです。
省略して良い名詞、代名詞と省略すると意味が分からなくなる名詞や代名詞があります。
「わからない」の主語は父親だろうと思いますが、書いてありません。

「『・・・スイスに行くからいいよ。』というれおなの言葉が、れおなの本音であるかどうか、父親の祐一にはわからない」というのが、正しい文章です。

こうしたミスは林の小説には多く、一週間以上あったと思われる週刊誌の執筆期間に林がミスに気付かず、編集者もこの原稿を良しとしていることは、小説というものが、如何に軽々しいものになっているかを表しています。
英語を使いこなすこと、人の上に立って仕事をすることは、いけないことではありません。
しかし、それは「デキル女」であることを意味するわけでもなく、ましてやそんなことで表現される「デキル女」が最高であるわけでもありません。
「デキル女」の内容は、人それぞれで、林真理子は、空ろな心を持った人々が登場する虚栄の小説を書く人です。

小説と云うと、小説が泣きます。
小説家と云うと、小説家が泣きます。

砂の塔を砂の上に築くのは構わないでしょう。
しかし、貴女が語る言葉は、人を殺します。
学校に行けない人はたくさんいます。
私の時代には、高校でさえ進学出来ない人がたくさんいました。
高校を卒業し医者になりたくても、経済的理由で、医学部に進めなかった人もたくさんいます。
私は医師会被害者ですから、「医者は最高である」と思うことはありません。
様々な理由で進学や就職が意のままにならなかった人がいて、彼らは今もそのことを悔やんでいたりします。
そういう方々に対する心を貴女は持ち合わせることが出来ませんか?
週間新潮社はどうでしょう?

小説家が何を語り、小説が何を為し得るか?
書くということ、書いたものを出版するということがどういうことなのか、真剣に考えたことがありますか?

WHOは正常に機能していますか?
私は機能するが故に怖い組織であると思っています。
厚生労働省が犯罪の坩堝であるように、WHOはそうした各国の医薬業界を世界的に集約する、人間の生命と動植物の生命を脅かしかねない組織であると考えます。
何処の壁にゴキブリが這い、巨大バッタが何処に飛んでいようと、そのヒロインの女医のオフィスは見るからに快適で、私は何処に行くことも出来ませんが、WHO職員は何処にでも行き、誰とでも会えます。

今後毎回この週刊新潮新連載小説「アスクレピオスの愛人」のことは書きます。

おそらく、週刊新潮も私の批判を受け止め、今後の小説に生かすことと思います。
私は、小説を書くということは、他と掛け持ちの出来ない大変な作業だと思っています。
小説家が自分で書くという最低のルールだけは、守って下さい。
林真理子は「源氏物語」執筆中とテレビで言っていましたが、掛け持ちは無理なはずです。
私は、6千字のエッセイなら3時間で書くことが出来ますが、6千字の小説は、一週間かかりっきりにならない限り書くことは出来ません。
全てを消耗してしまう、それが小説を執筆するということです。
ですから、過去の偉大な作家は、誰一人として生涯に何冊もの小説を出版していません。

13:03 2011/07/03日曜日