最後に、場所を去るに当たって僕達の唯一の後悔は最終学年時に僕達はシクスス・フォーム(6年制の形態)のメムバとして僕達が満足することができるような状況では状況では二人共ほとんどなかったことだ。今僕達は二人共聖ジャン(ヨハネ)ズ大学、アクスファドゥ(オクスフォードゥ)に通っていた、そこは単にカルトゥジオ修道会の馬鹿騒ぎの繰り返しであること請け合いだ。僕達はそこでは新入生である、しかし当然心温かく公立学校的であることを拒絶しようとする、そしてだから僕達の部屋に侵入したばかりに僕達の機嫌を損ねたり、誰かを傷つけたり、僕達自身を傷つけられたりするように強制されることの愚かさに直面する。そこにはおそらく僕達が僕達の三年目に達するまでどんな平和もないだろう、僕達が今と同じような立場に舞い戻る時、また僕達の予備学校でのあの最終学年と同じような立場に再び戻りつつも。「1917年に」、ネヴルは言った、「公的印証は全てのこの陰鬱さの上に押されるだろう。僕達は僕達の学位を得る、そしてそれから何かひどく嫌な職業で再び新人の男子としてスタートゥしなければならない。」
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