https://naritaetuko.jp成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたこと

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2012年4月6日金曜日

Ashes In My Hand/Marianne Faithfull翻訳

Ashes In My Hand by Marianne Faithfull


Marianne Faithfull
Ashes In My Hand

It took a long time coming
That big over the shoulder statement
But when it came? It flowed easy as poison
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair.
担(にな)え銃(つつ)の姿勢の提示以上に重大な影響力を持つようになるには
なかなか時間がかかる
それにしても、何時そうなったのか?
それは、この上ない絶望に含まれる毒物のように放縦に溢れた
この上ない絶望に含まれる
この上ない絶望に含まれる
この上ない絶望に含まれる

Remember to write often
In case you have something to tell me,
But please don't mention the unexpected guest
Staring into empty eyes
Staring into empty eyes
Staring into empty eyes
Staring into empty eyes.
忘れずに時には手紙を書いて
私に伝えたい事があるといけないので敢えて言って置きますが
どうか空ろな眼差しで見つめる期待されない客の事は話さないで
(空しさというものは不意にやって来る客のようなものだから、身一つに納めて)
空ろな眼差しで見つめる
空ろな眼差しで見つめる
空ろな眼差しで見つめる

A long lost confidence and pride
Come ringing back, come ringing back
To have the shadow back again
And happiness that feels like pain.
長い間、自信と誇りを見失っていた
思い直して名ばかりのものを捨て、だから苦悩の感触を持つ幸福よ、声も高らかに甦れ

Then you left us
To see if you could find it
And when you came back? it flowed easy as poison
It flowed easy as poison
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair
Taken in extreme despair.
すると貴方はそれを見つける事が出来るかどうか確かめる為に私達の家を出た
ほんとに貴方は何時帰るの?
それは、毒のように放縦に溢れた
それは、この上ない絶望に含まれる毒物のように放縦に溢れた
この上ない絶望に含まれる
この上ない絶望に含まれる
この上ない絶望に含まれる

A long lost confidence and pride
Come ringing back, come ringing back
To have the shadow back again
And happiness that feels like pain
And happiness that feels like pain
And happiness that feels like pain.
長い間自信と誇りを見失っていた
思い直して名ばかりのものを捨て、だから苦悩の感触を持つ幸福よ、声も高らかに甦れ
だから苦悩の感触を持つ幸福よ
だから苦悩の感触を持つ幸福よ
だから苦悩の感触を持つ幸福よ

Happiness that feels like pain.
Happiness that feels like pain
苦悩の感触を持つ幸福よ
苦悩の感触を持つ幸福よ

23:19 2012/04/05木曜日 


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田中角栄は朝鮮と日本で理化学研究所に関っています。
私を日弁連、福島瑞穂と協力して中傷し続けた新潟白川勝彦元国家公安委員長、日弁連(田中派小沢一郎父)も共犯です。
脳科学者は、三菱重工、三菱電気の人口網膜、刺激装置と刺激装置を動かす機械を使って、体中に電気を流し、体が焦げてチアノーゼが引かなくなるほどの事をしています。

田中角栄
1934年(昭和9年)3月 - 上京。住み込みで井上工業等の会社に働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。途中、海城中学校から海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
1936年(昭和11年)3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。
1937年(昭和12年) - 「共栄建築事務所」を設立する。・・・(資金を誰が出したのか?)
1939年(昭和14年)4月 - 応召、満州国で兵役に就く。
1940年(昭和15年)3月 - 陸軍騎兵上等兵となる。
1941年(昭和16年)
2月 - 肺炎を患い内地へ帰還。(肺炎に罹患した患者を船で帰す事はありません。これは嘘です。医師会もこの件に関しては有り得ない事だと言っています。)
10月 - 治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。(戦争中に事務所を東京に出す?その資金は誰が出したのでしょう?)
1942年(昭和17年)
3月 - 事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。
11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、4歳で死亡)
1943年(昭和18年)12月 - 田中土建工業を設立理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長。

北朝鮮は、中国の軍事基地であると考えます。
1945年(昭和20年)8月 - 第二次世界大戦敗戦。
滞在していた朝鮮半島から引き揚げる(最後は理研工業移転の仕事で大田(たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。

1943年(昭和18年)12月 - 田中土建工業を設立。と言っているのに、何時朝鮮に渡ったかが書いてありません。
背後にいるのは、吉田茂、岸信介、池田勇人、鳩山一郎です。
吉田茂は、終戦直前、中国・朝鮮で厚生省、理化学研究所の人体実験の処理をしています。
私がWIKIPEDIA其の外で其の記載を見つけると、自公政権は、吉田茂の戦前の経歴を詐称しました。