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2012年4月7日土曜日

Ballad of the Soldier's Wife/Marianne Faithfull翻訳

PJ Harvey - Ballad Of the Soldier's Wife(lyrics of Kurt Weill and Bertold Brecht)


Ballad of the Soldier's Wife
Marianne Faithfull

What was sent to the soldier's wife
From the ancient city of Prague ?
From Prague came a pair of high heeled shoes,
With a kiss or two came the high heeled shoes
From the ancient city of Prague.
プラハの古代都市から、兵士の妻に何が送られた?
プラハから、一足のハイヒールが届いた
プラハの古代都市から、一つ二つのキスをしたハイヒールが届いた

What was sent to the soldier's wife
From Oslo over the sound ?
From Oslo there came a collar of fur,
How it pleases her, the little collar of fur
From Oslo over the sound.
オスロから思いがけず兵士の妻に何が送られた?
オスロから毛皮の衿飾りが届いた
オスロから思いがけずささやかな毛皮の衿飾り
それは、どんなに彼女を喜ばせた事でしょう

What was sent to the soldier's wife
From the wealth of Amsterdam ?
From Amsterdam he got her a hat,
She looked sweet in that,
In her little Dutch hat
From the wealth of Amsterdam.
アムステルダムのお金持ちから、兵士の妻に何が送られた?
彼はアムステルダムで彼女に帽子を買った
彼女はそれを被(かぶ)り、アムステルダムのお金持ちからの
可愛らしいオランダ製の帽子を被ると、魅惑的だった

What was sent to the soldier's wife
From Brussels in Belgian land ?
From Brussels he sent her those laces so rare
To have and to wear,
Allamp:those laces so rare
From Brussels in Belgian land.
ベルギー国のブリュッセルから、兵士の妻に何が送られた?
ブリュッセルから、彼は彼女にとても素晴らしい
手に持っても、身につけてもよい、典型的な素晴らしいレースを送った
ベルギー国のブリュッセルから、典型的な素晴らしいレース

What was sent to the soldier's wife
From Paris, city of light ?
In Paris he got her a silken gown,
'Twas ended in town that silken gown
From Paris city of light.
栄光の都市・パリから、兵士の妻に何が送られた?
パリで、彼は彼女にシルクのガウンを買った
栄光の都市・パリからシルクのガウン

What was sent to the soldier's wife
From the South from Bucharest ?
From Bucharest he sent her a shirt
Embroidered and pert, that Rumanian shirt
From the South from Bucharest.
ブカレスト南部地方から、兵士の妻に何が送られたか?
ブカレストから、彼は彼女に刺繍を施された粋な其のルーマニアのブラウスを送った
ブカレスト南部地方から

What was sent to the soldier's wife
From the far-off Russian land ?
From Russia there came just a widow's veil
For her dead to bewail in her widow's veil
From the far-off Russian land,
From the far-off Russian land.
遠く離れたロシアの国から、兵士の妻に何が送られた?
ロシアの国から、其処にやっと未亡人用のヴェールが
遠く離れたロシアの国から、未亡人用のヴェールを着け、真っ只中大いに嘆く為に
遠く離れたロシアの国から

23:21 2012/04/06金曜日

①come
「寄せられる」、「送られて来る」、「届く」という意味があります。
From Prague came a pair of high heeled shoes,
プラハから一足のハイヒールを寄せられるという意味ですが、
プラハから一足のハイヒールが届くと訳した方が分かり易いでしょう。
②from
*原料・材料「~から」「~で」
*分離・離脱・出発・起点「~から」にも「~で」があっても良いと思いますが、私の四冊の辞書には載っていません。

辞書は編纂された方々の努力の結晶で、此処までよく調べて下さったと感謝し、感激している毎日です。
しかし、言葉は無数にあり、どんな辞書も完璧ではありません。
辞書の多くは、男性が編纂に当たっています。
女性の書いたものを翻訳する時には、女性が使いたくなる言葉を探さなくてはなりません。
女性用の言葉は辞書には殆ど載っていませんから、自分で作ったり、国語辞典で調べたりします。
熟語も辞書に載っていなかったり、適当なものが探せない時は、それぞれの単語を調べて自分で意味を作ります。

From Paris city of light・・・この歌詞を見た時、これはナポレオンの時代を歌った歌だと分かります。
ロシアから未亡人用のベール(黒)が送られた事で、確信しました。
Paris city of light
ナポレオンのパリ凱旋の事を言っています。
パリは、ナポレオンの栄光を讃える凱旋門のある都市です。
最後にロシアに敗れ、彼は島に流されます。
From Russia there came just a widow's veil
妻は皆、未亡人になってしまいます。
From the far-off Russian land,
「ナポレオンが戦いに敗れたのは、ロシアの国が遠く離れていたから」、と誇り高いフランスらしさを歌っています。
ナポレオンの時代、空軍が出動する訳ではありませんから、徒歩と馬に乗っての酷寒(こっかん)の国ロシアへの移動と其の地での戦いに敗れた事は、仕方のない事でした。

下記を参考にして下さい。
ナポレオンと王制を捨てた革命後のフランスが如何に強大な力を持ち、畏(おそ)れられたか、流刑地セントヘレナのWikipedia記述を読めば分かります。
私の時代も現在も、フランス以外の国では、何故かナポレオンを軽く見ます。
しかし、凱旋門が象徴するように、フランスのかつての英雄です。
100日天下という言葉・・・私も習いました。
王制をいち早く打倒したフランスに対する一種皮肉めいたお話は、米英と仏、カトリックとピューリタン、未だに存命中のヨーロッパ各国国王と貴族の意志を反映しているのかな、と思いもします。

Wikipediaより(Wikipediaの記述が変更され、読み易く、分かり易く、挿絵、写真も好感が持てるものに変わりました。とても勉強になります。Wikipediaの梯子をしてみて下さい。)

ナポレオン戦争(1803~1815)
フランス革命戦争(1789~1799)後の混乱期、
ナポレオン率いるフランスと同盟国が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強の対仏大同盟と戦った。
1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争終結、ナポレオン失脚。
セントヘレナ島流刑。
第二次パリ条約で、「1790年当時の領土」に縮小。
フランスは7億フラン(1フラン18円として126億円)の賠償金の支払いを課せられ、最長5年間の同盟軍のフランス駐留と駐留経費を負担した。
パリ条約締結と同日、オーストリア、ロシア、プロイセンによって神聖同盟締結

*参戦国

全てのヨーロッパの国家が多かれ少なかれナポレオン戦争に関与した。
ナポレオン戦争では、何度も宣戦布告と講和が繰り返され、フランスとイギリスは一貫して対立関係にあった。
フランス側の同盟国から対仏大同盟側へ、又その逆へと、参戦国は何度も入れ替わった。

*ほぼ一貫してフランス側で参戦した国家
フランス帝国、デンマーク王国、ワルシャワ公国

*時期によって立場を変えた国家
スペイン王国、ライン同盟諸邦(バイエルン王国、ザクセン王国など)、ナポリ王国、オランダ(バタヴィア共和国、ホラント王国)、スイス(ヘルヴェティア共和国)

*ほぼ一貫して対仏大同盟側で参戦した国家
イギリス、オーストリア(ハプスブルク君主国)、ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、ポルトガル王国、オスマン帝国、サルデーニャ王国、教皇領

ナポレオンとセントヘレナ
ロングウッド・ハウス

ナポレオン1世がエルバ島脱出の後、ワーテルローの戦いで敗れると、ウィーン会議により身柄の扱いはイギリスに一任。
イギリスはナポレオンの亡命受け入れを拒否。
保護を名目としてこの絶海の孤島セントヘレナ に閉じ込めた。
ナポレオンは1815年10月、セントヘレナに到着、1821年5月、死亡するまで六年間、島中央のロングウッド・ハウスに暮らした。
時に「流刑」と称されるが、裁判や条約に基づかない不法拘留であった。
イギリスはハドソン・ロー総督に監視させるにとどめ、館での生活はナポレオン一行の自由にさせていた。

ナポレオン幽閉の時代も、この島は、東インド会社領のままであったが、イギリス政府の関与はより大きくなった。
ナポレオン派を警戒し、島には部隊が駐屯、海軍の艦船が島の周辺を警戒した。
又、隣の島であるアセンション島やトリスタン・ダ・クーニャ島にもイギリス軍が派遣された。

1817年の国勢調査によれば、島には821人の白人住民、820人の兵士、618人の中国人労働者、500人の黒人自由民、1540人の奴隷がいたことが記録されている。
ナポレオンの死後、数千人の「滞在者」は島を去り、東インド会社が島の統治を続けた。
ナポレオン幽閉中、島のコーヒーを称賛したことから、パリではセントヘレナ産コーヒーの評判が高まった。