Ⅲ
6歳になると、僕は幾つかの予備スクールに行った。いの一番はウィムブルダンの女教師学校だった、しかし僕の父は、教育専門家として、僕をそこに長く居させる気はない。彼は20-3-時間割の大変さに一日悲鳴を上げている僕に気付いた、併(あわ)せて僕達が使った質疑‐と‐応答の歴史書にも不満を示した、それは始まった:
問い:なぜブリトゥン(英国人)はそうよばれたか?
答え:なぜなら彼らは彼ら自身を青色に塗ったから。
更に、彼らは僕にメトゥラノウムに合わせて暗算をさせた!僕はこの拷問の下で神経症を患い、一度自ら小便を漏らした。そこで僕の父は、僕をキングズ・カリジ・スクール、ウィムブルダンに僕を送った。僕はちょうど7歳になったばかりで、そこでは最も若い男子で、彼らは19歳になろうとしていた。僕の父は2学期の後、僕を連れ去った、なぜなら僕が下品な言葉を遣っているのを耳にしたから。僕はラトゥン(ラテン語)を始めた、が誰もラトゥンが意味するのは何か説明しなかった;その語形変化と活用は、僕には全く呪文でしかなかった。
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