https://naritaetuko.jp成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたこと

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2011年5月7日土曜日

若山牧水:寝たい短歌

藤山一郎、松田トシ:白鳥の歌昭和22年(1947年)

白鳥の唄
若山牧水
 
白鳥は 悲しからずや
空の青 海の青にも
染まずただよう
 
いざゆかむ 行きてまだ見ぬ
山を見む このさびしさに
君は耐うるや

幾山河 越えさりゆかば
さびしさの はてなむ国ぞ
きょうも旅ゆく


なにゆゑに 旅に出づるや, なにゆゑに 旅に出づるや, 何故に旅に

私はこの「何ゆゑに旅に出づるや・・」を四番の歌詞として歌います。
若山牧水のことを知っているわけでも何でもありません。

幾山川
越え去り行かば
さびしさの果てなむ国ぞ
きょうも旅ゆく

は、高校生の時だったか中学生の時だったか、国語で習いました。
高校一年と三年の時は、汽車で通学していました。
中学二年と三年の時も汽車通学でした。
汽車の中でこの短歌の文字を何度も頭の中で反芻したのを覚えています。
私は甘えん坊の寂しがり屋の泣き虫でした。
人はホントニ寂しい
寂しい・淋しい・さびしい
「さびしい」と私は子供の頃言っていました。
「さびしい」が一番さびしい感じがします。
すっかり「さびしい」という言い方を忘れていました。
漢字で書くなら、私は「寂しい」と書きます。
こんなにさびしい短歌はないと思うのが、

いざゆかむ 
行きてまだ見ぬ
山を見む 
このさびしさに
君は耐うるや

君にさびしい思いをさせない、
何一つ耐えさせない
私が耐えるからと、私は勝手に思っていました。
人は人のことをそれほど真剣に考えないんだということを、私は知りませんでした。
君のさびしさを思う時、私の胸は締め付けられます。
生きることは、さびしさと寄り添うことです。
いろんなことがありますが、さびしさは、人らしい感情で、さびしさに耐えることが、あってもよいし、なくてもよいと思います。
或る時は耐えられなくて、誰かと寝ちゃうことだってあります。
「寝ちゃうことに道徳を持ち出さないで」と私は言いたい。
愛があるとかないとかではなく、ヒトとしてヒトを求めてさびしさを解消することは、して悪いことではありません。

なにゆゑに 旅に出づるや,
なにゆゑに 旅に出づるや,
何故に旅に

三度同じ言葉を繰り返す若山牧水氏の気持ちが、私はとてもよく分かります。
貴方も分かるでしょ。
詩を書く時、そうなってしまうことがあります。
十も同じ言葉を書きたかったり、この文字で初めから終わりまで通したいと思うことがあります。
大抵三つくらいで我慢しています。
作者の感情の吐露は構わないことです。
詩も短歌も情緒的であっても、そうでなくても構いません。
人は情緒的なものですし、情緒のない詩や短歌や小説を読んでも、感銘を覚えることはありません。
評論家には短歌や詩を書くことは出来ません。
詩人であり、評論も行なう人で、まともな作者はいません。
読むような詩や、短歌や小説など無いに等しい現在の状況ですが、評論家を兼ねている詩人の詩は、つまらない。
敢えて何処までも情緒に流されることで、素晴らしい短歌や詩になることがあります。
ただ、「自分に対しては何処までも厳しく」、と私は思っています。

生きることに理由や意味を見つけるなんて、馬鹿げた宗教家と道徳家に任せて置きます。
私達人間は、生きることは、「生きている」、それだけのことで、好きにやらせて貰いましょう。
自分を縛る人は、人を縛ります。
自分を見つける、どんな自分か見つける、それが生きることだと私は思います・・と言うより、「自分を見つけることが生きるということだったなあ」と六十一歳になって思います。
私が私になることが出来て楽になったのは、四十歳を過ぎてからです。
旅はまだまだ続いて欲しいと願っています。
私は私が大好きですから、私と一緒に何時までもいたい。

急いで生きることの理由が欲しい時もありました。
なぜこんなに私は急ぐのだろう?
生きることより、死ぬことばかりを考えていた時代があります。
死ぬことの方が、生きるていることより楽だと思いました。
長い間、私は私を探せずにいましたから。
「生きていたって、どうせ死ぬのに」といつも口にしました。
帰郷する列車の中の一分に耐えられない私でした。
恋人と分かれた後の一時間を生きていることの出来ない私でした。

私と同じ思いを人にさせたくないと私は考えてしまいます。

いざゆかむ 
行きてまだ見ぬ
山を見む 
このさびしさに
君は耐うるや

この短歌は私そのものです。
素晴らしいと言うより、一緒に寝たい短歌です。

なにゆゑに 旅に出づるや,
なにゆゑに 旅に出づるや,
何故に旅に

私もそうです、貴方もきっとそうでしょう。
自分がしていることが報われることなどありません。
報われたからと言って、救われるものでもありません。
それでも、理由のない旅、生きるということは、人にとって自然なことで、人は生きて、死ぬまで生きていたいと願っているものです。

何かに染まるのもよく、染まらないのもよく、何ものにも染まらない白鳥は、人そのものです。
人はどのように染め上げても、自分以外の何者でもありません。
私であること
貴方であること
それが愛しい。

一日経ちました。
私の記事は、検索に載っていません。

若山牧水 - いとおしき日々
2010年5月3日 ... 若山牧水. やわらかな日が照らしている朝 しっとりと八重桜がさいた。 朝もやの中でまるで 水にひたっているようように みずみずしい。 花も葉も 光りしめらひ われの上に 笑みかたむける 山ざくら花 若山牧水 ...
blog.goo.ne.jp/tukikusa.../0f3c706d0fad35730cd45ff33ad2b630 - キャッシュ
写真を載せているだけのサイトで、五月のキャッシュです。
このGoo・NTTレゾナントサイトは、日本政府が書き込ませているサイトです。
NETに書き込みが出来るのは、国民ではなく、国家の決めた人間と組織だけです。
NET経由殺人事件を行なっているのは、日本政府と警察庁、国家公安委員会などで、計画的に行なわれています。
若山牧水も、林真理子や瀬戸内寂聴に弄繰り回された源氏物語も既に死にました。
日本政府ー自民、自公、民主国民新社民党政府は映画、音楽、文学の全てを企業と共に、ごみ箱に投げ入れてしまいました。

23:39 2011/05/07土曜日