https://naritaetuko.jp成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたこと

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2019年2月11日月曜日

「リンゴ」ってほんとは、子供が書いたんじゃない?

「リンゴ/An Apple」 作 まど・みちお 訳 美智子皇后陛下

リンゴ
まど・みちお

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが

まぶしいように
ぴったりだ

リンゴを一つここに置く。
リンゴを一つ、こことは言えない所に置く。
リンゴが見えてさえいればリンゴで、
一つしかなければ二つのリンゴとは思わない。
結構窮屈、
つまらない。
見えていなければ、赤いリンゴもリンゴ型の金塊に変え、
金塊10!と空想したりする。
又、リンゴは10個もあるんだよ、と思ったり、口にしたりする。
大きさなんて好き放題。

自分というものは、自分の目に写り、自分の発する声は自分の耳に聞こえ、
自分の胸に手を置くと、
血は、絶え間なく流れて行くのを確かめられる。
自分はここだなんて
自分はいっつもここだなんて
窮屈で
つまらない
ここに他のリンゴが一つあれば、退屈から逃れられるだろうにと思った日もあった。
見えない何処かに10のリンゴがあれば、
見えないし、声も聞こえないし、触れられもしないが、在るという空想だけなら出来るから、惑わされなくていいと思う。
在る、有る事は、他と交わる事を意味しない。

それぞれが、不自由な自分を抱える。
空想するだけなら、孤独と友達に。
触れてはいけない、口にしてはならない、耳にしてはならない、目にしてはいけないのに、ここにしかいられないという事も忘れ、
見えないところに在るものを恋しがる。
すると、誰かと友達に、と思ってみたりもした。
が、又もや孤独と友達に。
友達は、孤独なのと、浮かれ気分の今日この頃。

リンゴの大きさについて。
リンゴは、木から引き剥がしても、生きている。
リンゴは、充実の時を向かえる。
いっぱいいっぱいの大きさだとどうしても思えない。

この詩、ほんとは、子供が書いたんじゃない?
美智子婆さんにはお似合い。
幼稚だわな。


11:47 2019/02/11月