2021年12月30日木曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

  「僕は分からない、ヘンリ。」

  僕はこの男宛に書き、僕の家族の知人が、私立刑事斡旋所についての僕の忠告を頼みにしている、としておいた。。そりゃあ、ぞっとするよ、ベンドゥリクス。彼は表向きの理由を通して見破らなければならなかった。  

  「貴方は実際そのつもりで・・・?」

  「僕はそのことでは、少しも動かなかった。」それでもその手紙は、僕に思い出させながら、僕の机の上の、そこでじっとしていた。それはひどく馬鹿げているから、それを読もうともしない彼女を、信用出来るとは思えないでしょ。彼女は一日に十二回もここに入るのに。僕は引き出しの中に、それを仕舞い込んだりしない。それでも未だ、僕は信用出来ない・・・彼女は今、散歩に出ている。徒歩、ベンドゥリクス。」雨は彼の防具にも浸透し、ガス灯の方へ彼の袖の縁を向けたままにした。

  「貴方は何時も、彼女の特別な友だちだった。ベンドゥリクス。誰もが決まって言う、誰もではないが、夫は、女性というものを知る、実に最後の人物であると・・・僕は今夜思った。共有地で貴方を見かけた時、もし僕が貴方に話して、貴方が僕を笑ったら、僕はその手紙を焼いてしまえるのにと。」

  彼はそこに彼の湿った腕を伸ばしたまま、僕から目を反らしながら座った。僕は笑いたくないとは、思いもしなかった。それどころか、出来るなら、笑いたかった。

17

2021年12月29日水曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

   彼は誰か彼を押したかのように、安楽椅子に座り、「ベンドゥリクス、僕は何時も、一人の男が成し得る最悪の事、まさしく最悪の事態を、想定して来た・・・」僕には予想外、何処までも限りなく打ち沈み、無知故の平静、あの当時、僕は確かに、張り枠の針の上に居て然るべきだった。

  「貴方が僕を信用出来るのは、分かっている、ヘンリ。」それは可能で、僕は彼女が手紙を取って置いたのでは、と思った。僕はそんなに書いて来なかったが。それは作家が陥るプロフェッショナルならではの危険である。婦人は彼女たちの恋人の重要性を、過大視しがちで、彼女たちは分別のない字句が、五シリングに値付けされた自著の目録に記された「関心がある」が明らかになる時、その期待外れの日を、決して予知しない。

  「じゃあ、これをちょっと見て。」ヘンリが言った。

  彼は僕に手紙を差し出しーそれは僕の手書きのものではなかった。「続けて。それを読んでみて。」ヘンリは言った。それはヘンリの或る友人からで、彼は書いた。「貴方が助けようとしているその男は、159ヴィゴウ・ストゥリートゥ、サヴィッジという奴に該当するのではないか、と私は提案します。私は彼を有能で思慮深いもの、と思っています。それと彼の使用人は、普通にいるその種の奴らよりましで、厭らしくはないよう見えました。」

16

2021年12月28日火曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 もしかしたらチャンスがあるかも知れないという理由だけでも、僕は開戦を歓迎したかった。たとえそれが僅かであろうと、彼の側のちょっとした戦術の誤りの所為で、僕は勝っていたかも知れない。それに、僕が非常に強く勝ちたいと願ってからも、それ以前も、僕が生まれてこの方、一度も好機に恵まれたことはなかった。優れた本を書こうという願望でさえ、そう頑なに持ってはいなかった。

  彼はその赤い縁の付いた目で、僕を見上げ、言った。「ベンドゥリクス、僕は心配している。」僕はもはや、彼を贔屓にすることが出来なくなった。彼は苦悩の卒業生の一人と化した。彼は同じ学校に合格していながら、初めて僕は、対等な者として彼について考えた。僕は彼の机の上の、オクスフォードゥを背景にした、そのはしりの褐色の写真の一枚に見覚えがある。彼の父親の写真、それを見ながら、ヘンリに多少なりとも似ているか(それはほぼ同じ年代、四十半ばに写された)、いや、少しも似てはいないと僕は思った。それを違わせているのは、口髭ではなくーそれは、自信、森羅万象に精通していること、周りの事を熟知していることから来るヴィクトーリア朝の見掛けだった。と、突然、僕はまたもや親密な仲間意識を覚えた。僕は彼の父親(大蔵省にいた)を好きになろうとして来たのに、もっと彼を好きになった。僕たちは、他人同士だった。

  「貴方は何が気懸かりなの、ヘンリ?」

15

2021年12月27日月曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 ヘンリの書斎の中同様、これまで利用されたにしても、極めて稀だった、と僕は直ぐに感じた。ギボンのセットゥは、嘗て開かれたか、またスコットゥのセットゥは、只そこにあるだけかどうか、僕は疑った。なぜならそれはーおそらくーディスカス・スラウアのブロンズの模造品のように、彼の父親のものだったから。それにしても、彼の利用しない部屋の中では、彼は余計幸せそうだった。単にそこは彼のもの、彼の所有物という理由だけで。僕は辛辣さと羨望と共に思った。もし人が一つの物を確実に所有したら、人はそれをどうしようと自由だ。

  「フイスキ?」ヘンリが聞いた。僕は彼の目を思い出し、昔日やった以上に飲んでいるのだろうかと怪訝に思った。確かに彼が注ぎ出すフイスキは、気前のいいダブルだった。

  「何が貴方を悩ませているの、ヘンリ?」僕はその古参の文官に関する小説を、とっくに放棄してしまっていた。僕はもはや、コピイを探ろうともしなかった。

  「サラー。」彼は言った。

  二年前、と丁度そんな言い回しで、彼が言っていたら、僕はぎくっとしただろうか?いや、僕は大いに喜んだと思うー人は確かにどうしようもなく、騙すことが嫌になる。

14

2021年12月26日日曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 ーここは彼の環境に相応しくない。彼の目の白いところが充血しているのに気付いた。おそらく彼は、彼の眼鏡をちゃんと掛けずにいたんだ。ーずうっと、随分大勢の他人がいたし、或いは、それは涙の名残りだったのかも知れないが。「ベンドゥリクス、僕はここでは話せない。」彼は前に何処かで話す習慣でもあったかのように言った。

  「サラーは帰るだろうか?」

  「僕はそうは思わない。」

  僕は飲み代を払った。するとそれが、いっそうヘンリの心配の徴候を露わにした。ー彼は安易に他の人々の持て成しを受け入れたことはない。彼は、僕たち他の者が探し回っている間もなく、彼の掌に準備したお金を握って、車上の人になるのが常だった。公有地の通りは、未だ雨の中を走ったが、そこはヘンリの家に遠くはなかった。彼は、アン女王時代の扇形欄間の下の掛け金を外す鍵を持って、中に入り、呼んだ。「サラー。サラー。」僕は返事を待ち焦がれながらも、返事を恐れはしたが、誰も答えなかった。彼は言った。「彼女は未だ外出中だ。書斎に入って。」

  僕は一度も、書斎に入ったことはなかった。僕は決まって、サラーの友人だったし、僕がヘンリに会っても、それはサラーの縄張りの上でのことだった。調和と無縁、終わりも計画性もなく、あらゆる物が、まさしく同じ週に属しているように見えた彼女の居間。何故なら、過去の感覚、或いは過去の多感の象徴として、引き続き残すことを許された物は何もなかったから。全ての物は、そこで費(つい)えた。

13

2021年12月25日土曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

   「ベンドゥリクス、僕は心配なんだ。」

 「僕に話すといい。」

  彼に話しをさせるのは、ラム酒だ、と僕は期待した。それとも、彼について僕が如何に多くを知っているか、彼はある程度気付いたのか?サラーは誠実だったが、僕たちの経て来たような関係では、貴方は一つの事か或いは二つを拾い上げるしかない…彼には彼の臍の残物に奇体がある、と僕は知った。何故なら、僕自身の母斑が、以前サラーにそのことを思い出させたから。彼が近視に悩んでいたと僕は知っていたが、見知らぬ人相手に、眼鏡を着けようとはしない。(それで僕は、未だに、彼らの中に彼を見かけた事がない、赤の他人のままだった。)僕は彼の十時のお茶の好みを知り、僕は彼の睡眠の習慣まで知った。僕が既に、随分多くを知っているということに、もう一つの事実が、僕たちの関係を変えはしないということに、彼は気付いているのか?「彼は言った。「僕はサラーを心配している、ベンドゥリクス。」

  バーのドアが開き、僕にはその明かりの中に浮かび上がる激しく降る雨が見えた。小さい浮かれた男が飛び入り、「やあ、皆さん。」やはり誰も答えなかった。

  「彼女は病気?貴方が言うと思って・・・」

  「いや、病気じゃない。僕はそうは思っていない。」

彼は居心地悪そうに、辺りを見回した。

12

2021年12月24日金曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

その壁は、常套句で落書きされていた。「お前を地獄に落とす、家主、それにお前のデカ胸妻。」「全ての女衒(ぜげん)と売春婦どもへ、浮かれた梅毒と幸せな淋病を。」僕は急いで、また、元気のよい紙の長い旗とグラスのカチンという音の方へと出た。時に僕は、慰めのために余りにも接近し過ぎて、他の男達の中に、僕自身が反映されているのを見る。するとその時、僕は聖者や天使を信じられたらという、非常に大きい願望を持つ。僕はヘンリに、僕が見て来た二つの台詞を繰り返した。僕は彼を憤慨させたかったのに、彼が只「嫉妬は、恐ろしい行いだ。」と言った時、僕を驚かせた。

  「貴方はデカ胸妻についての一説のつもりで、言っているの?」

  「その両方とも。貴方が惨めな時、貴方は他の人々の幸せを羨む。」僕は国務省で学ぶ事を、今まで彼に期待したことはなかった。そしてそこで―表現の中にー僕のペンの外に、またもや辛辣さが漏れる。何とうっとうしい、つまらない特性か、この辛辣さは。もし僕ができるとすると、僕は愛情を籠めて書こう。もし僕が愛情を籠めて書ければ、僕はもっと違った男になるだろう。僕は愛を捨てようとしたのではない。しかし、突然バー―テイブルの光沢のあるタイル張りの表面を横切る何かを、僕は感じた。愛情と肩を並べる程、過激なものは何一つない、おそらく不運の道連れ以上のものも、何一つない、僕はヘンリに言った。「貴方は惨めなの?」

11

2021年12月23日木曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 「ヘンリは重要な会議の前に、彼の息をすっきりさせるために、何時もコフィ・ビーンを食べるの?」彼女は彼女の頭を振り、静かに泣き始め、僕は勿論、その理由を心得ない振りをした。ー単なる疑問、それが、僕の性格について、僕を悩ませて来た。これはヘンリへの攻撃ではなかったし、非常に洗練された人々は、時にコフイ・ビーンを食べる・・・だから僕は続けた。 彼女はしばらく泣くと、眠りに就いた。彼女はぐっすり眠る人だったのに、僕は加えた攻撃通りに、彼女の眠る権限まで奪った。

  ヘンリは彼のラムをあっという間に飲み、藤色とオリンジの長い旗の間をみすぼらしくうろうろするばかりの彼の凝視。僕は尋ねた。「いいクリスマスだった?」

  「とても素晴らしかった。とても素晴らしかった。彼は言った。

  「家で?」ヘンリは僕の言葉の抑揚が、妙に聞こえたのか、僕を見上げた。

  「家?そう、もちろん。」

  「それでサラーは満足したの?」

  「うん。」

  「ラムをもう一杯飲む?」

  「僕の番だ。」

  ヘンリが飲み物を取って来る間、僕はお手洗いに入った。

10

2021年12月22日水曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 国防-僕は、貴方が貴方の片割れを憎み、どのような武器でも捜し求める時、その時その時の後に、それを笑うのが常である・・・僕の本の喜劇的要素、笑い草になった人物のためにコピー、またもやコピーの目的で、僕は只、ヘンリに組みして来ただけ、とサラーに熟慮の上で話した時、潮時はやって来た。彼女が僕の小説を嫌になり始めたのは、その時だった。彼女はヘンリ(僕はそれを否定することが出来なかった。)に非常に大きい忠誠心を抱き、あの雲で覆われた時間に、悪魔が僕の頭脳の咎を引き受けると、僕は無害なヘンリまで恨み、僕は小説を使って書くには生々し過ぎるエピサウドゥを捏造しようとする・・・サラーが、一度僕と共に一晩を過ごした時(書き手が彼の本の最後の言葉のために先んじて探し求めるように、僕はそのために先んじて探し求めた。)、僕は折々、一時(いっとき)に何時間も完全な愛のように思われたそのムードゥをぶち壊す出任せによって、突然その機会を台無しにしてしまった。二時近く、僕は拗(す)ねて眠りに落ち、三時に目覚め、彼女の腕の上に僕の手を置いて、サラーを起こした。僕はもう一度、万事見事に振舞おうとしていた、と僕は思う。僕の犠牲が、眠りと僕に対するあり余るほどの信頼で、ぼんやりして美しい彼女の顔つきを変えるまで。彼女は口論を忘れてしまい、僕は彼女の忘れっぽさの中にさえ、新たな動機を探った。我々人間が如何に捻じれているか、それでも尚、神が我々を創ったと彼らは言う。が、完璧な均衡化ほど単純で、空気ほど透明ではないどのような神をも、想像することは難しい、と僕は理解する。僕は彼女に言った。僕は五章について考えている内に、目が覚めてしまった。

9

2021年12月21日火曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

僕はヘンリと寸分違わず寝てはいなかったが、僕は次の極めて酷いことをした。僕が夕食にサラーを誘い出した最初の夜、僕は文官の妻の脳を突(つつ)いて、穴を開けんばかりの冷血な意志を持った。彼女は僕が何を狙っているか知らず、彼女は考え、僕は確信し、僕は彼女の家族の暮らし振りに心底興味を持ち、おそらくそれが、彼女の僕への好意を、最初に呼び覚ました。「ヘンリは何時に朝食をとるの?」僕は彼女に聞いた。彼は役所へ地下鉄、バス、それともタクシで行ったの?彼は夜、家に彼の仕事を持ち帰ったの?彼はそれに王室の紋章の付いた書類鞄を持っていた?僕たちの友情は、僕の関心に基づいて開花し、彼女はたいそう喜んだので、誰もがヘンリを真面目に扱うべきである。ヘンリは、しかし象が重要であるように、どちらかと言えば重要で、彼の局の大きさ故に、重要である。救いようもなく、不真面目を貶(けな)されっぱなしという重要のとんでもない類がある。ヘンリは年金省ー後に内務省になった、内の重要な事務官補だった。

8

2021年12月20日月曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

   「彼女は映画館にいるの?」僕は尋ねた。

 「ああ、いや、彼女は今までほとんど行ってないよ。」

 「彼女は何時も行ってたんじゃ。」

  ポンテフラクトゥ入江は、未だ紙の長い旗や紙のベルや市場の華やかさを偲ばせるもの、藤色やオリンジでクリスマスのために飾られ、若い女主人は彼女の客を軽く見て、彼女の胸をバーに凭せかけた。

  「素敵。」ヘンリが言った、そのつもりもなく。幾分当惑した様子、臆病で、彼の帽子を掛ける所を探して、辺りをじろじろ見た。彼が以前、パブリック・バーに行った中で最も近いのは、彼が省の彼の同僚と一緒に、昼食を食べたノーサムバーランドゥ・アヴェニューから離れた焼き肉リストゥラントゥだった。という印象を得た。

 「貴方は何を飲みますか?」

 「僕はフイスキでかまわないよ。」

 「僕も。だけど貴方はラムを付き合わなければいけませんよ。」

  僕たちはテイブルに座り、それぞれののグラスを弄んだ。僕はヘンリに言わなければならないことは、さほどなかった。もし僕が1939年に、主役として古参の文官を扱った小説を書き始めていなければ、ヘンリもサラーもよくよく知ろうとして、骨を折ろうとしたかどうか、僕は疑わしく思う。ヘンリ・ジェイムスは嘗て、ウオルタ・ベサントゥとの討論の中で、十分な才能を持った若い婦人は、近衛連隊の兵舎の食堂の窓をひたすら越える必要があり、近衛歩兵旅団に纏(まつ)わる小説を書くために、内部に目を向けるにしても、彼女の編の或る場面では、もし単に詳細に関して照合するつもりなら、彼女は近衛連隊と寝る必然性を探ろうとしただろうに、と僕は考える。

7

2021年12月19日日曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

「僕たちが貴方に出会ってから随分経つね、ベンドゥリクス。」何かしら分けがあって、僕はその異名によって知られた男である。-僕は、僕の文学上の親たちが僕に寄せた、僕の友人たちはかなり気取っていると思うモーリスを、万事有用であれ、名付けられない方がよかった。

 「久しぶりだ。」

 「どうしたことか、一年以上ーになるね。」

 「6月、1944年の」僕は言った。

 「それ以来かーそう、そう。」馬鹿者、僕は思った、一年と半年の間に、何一つ変だと思わないなんて馬鹿だ。僕たちの両「脇」を五百ヤードゥも、ぺしゃんこになった草は隔てていなかった。サラーに話したところで、何も彼に起こらなかったのだ。「ベンドゥリクスはどうしている?ベンドゥリクスを招待するのはどう?」彼女の返事は、嘗て彼には・・・風変り、逃げ口上で、怪しく思われなかったのか?僕は池の中の石同然、完全に彼らの視界から抜け落ちてしまっていた。さざ波は一週、一か月の間、サラーを悩ませたのかも知れない、と僕は思いはするが、ヘンリの目隠しは、しっかりと括りつけられていた。僕は僕がそれから利益を得た時でさえ。彼の目隠しを、仇(あだ)と思って来た。他も又利益を得られる、と知っていた。

6

2021年12月18日土曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

 「ベンドゥリクス」彼は愛情を籠めて言ったが、それでも世間は言っただろう。彼には憎悪の理由があり、僕にはないと。

  「貴方は何をしようとしてるの、ヘンリ、雨の中?」誰でも焦(じ)らしたくて抑えられない衝動にかられる男たちがいる:誰一人受け容れない男達、その美徳。彼は口籠りながら言った。「ううん、僕は少し外気に触れたくて。」思いがけない一陣の風と雨の最中(さなか)、北の方角へ輪を描いて持って行かれないように、彼はどうにかこうにか彼の帽子をしっかり押さえた。

  「サラーはどうしてる?」そうしなくてもそれは奇妙に思われたかも知れないから、僕は聞いた。彼女が病気、不幸せ、臨終以上に僕を喜ばせるものは何もなかったが。僕はあの当時、彼女が経たどんな苦悩も僕の持ち物を軽くし、仮に彼女が死んだら、僕は自由になれるだろうと思い遣った。僕はもう人が、僕の卑しい暮らし向き故に、想像してしまうどんなことも思うまい。僕は哀れで無邪気なヘンリを好ましくさえ感じられて、僕は思うに至った、もし彼女が死んだらと。

    彼は言った「ああ、彼女は夕時何処かへ出かけている。」すると又、僕の心の中のあの悪魔を仕事に差し向けた。ヘンリが他の質問者に、ちょうどそんな風に、返事をしなければならなかった以前が思われる。しかし僕だけは、サラーが何処にいるか知っていた。「一杯やろうか?」僕は尋ね、僕の不意打ちに彼は僕に近付き、自ら歩調を合わせた。僕たちは前に、彼の家の外で、一度も飲んだことはなかった。

5

2021年12月17日金曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

僕は雨を突いて散歩に出かけ、近所の居酒屋で一杯やろうと思った。少し混み合ったホールは、 見知らぬ人の帽子やコウトゥばかりで、僕は誰か他の人の傘を偶々(たまたま)手に取ったー二階の男が、仲間を招待していた。それから僕はステインドゥーグラス・ドアを後ろ手に閉め、1944年に爆破され、一度も修繕していない階段を注意深く降りた。僕にはその時を思い出す理由があり、どれほどステインドゥ・グラスが頑丈で不格好でヴィクトーリア朝風で、僕たちの祖父自ら為そうとしたように、衝撃に立ち向かった。

 僕は公有地を横切り始めるやいなや、違う傘を掴んだことを自覚した。それは漏れ穴を生じ、雨が僕の防水レインコウトゥの襟の下に流れ落ちた。程なくして僕はヘンリを見かけたのだ。僕はいとも容易く彼を避けられた。彼は傘を持たず、ラムプの灯かりで、僕には彼の目が雨で見えなくなっている、と見受けられた。黒い葉のない木々は、何の守りにもならなかった。それは壊れた送水管のように周りに立ち尽くし、雨は彼のこわばった黒っぽい帽子から滴り落ち、彼の黒い文官用オウヴァコウトゥを流れとなって伝わり落ちた。もし僕が彼を追い越して真っ直ぐ歩いて行けば、彼は僕に目をくれようともしなかっただろう、僕は歩道から二フィートゥ避(よ)けて通ることで、避け難くした。何れにせよ僕は声をかけた。「ヘンリ、貴方はおよそ見ず知らずの人だ。」僕たちが古い友達であるかのように、彼の目が輝くのを見た。

2021年12月16日木曜日

The End of the Affair/ Graham Greene 成田悦子訳

 何故彼に話しかけるべきだったか?一時(いっとき)でも憎悪が大きく広がらなければ、どのような人間への告発の中でも使えない。僕はヘンリーを憎んだ―僕は彼の妻サラーもまた憎んだ。そして彼は、僕は推察する、あの晩の出来事の後、間もなく、僕を憎むために現れた。彼は確かに折々に、彼の妻やその他の者を憎むしかなく、あの当時、誰かを信じるに足りず、僕たちは幸運だった。そう、これは愛についてというより断然、憎悪の記録である。よってもし僕がヘンリとサラーの好意に甘えて、何か言うために登場すれば、僕は期待に応えましょう。僕は偏見を向こうに回して書いている。何故なら、近い―真実、僕の近い―憎悪の表明でさえ、選ぶことは僕のプロフェッショナルな自負だから。

 こんな夜に外でヘンリに会うのは、思いがけなかった。彼は彼の慰めとなる人を好み、つまるところー或いは寧ろ、と僕は思った―彼はサラーを所有した。僕にとって慰めは、悪しき場所か時の、悪しき記憶に似ている。人は寂しければ、人は苦痛に寄り添う。僕が不道徳をして過ごしたベッドゥの中にも、居間ー南ー公有地の横、他の人々の調度の名残りの中に、あり余るほどの慰めがあった。

2021年12月14日火曜日

The End of the Affair/Graham Greene 成田悦子訳

                                             To C

男は未だj実在しない彼の心の中の場所を持ち、それらが実在を確保してもよいという指図に、それらの中に悩みながら入り込む。

                レオン・ブロイ


The End of the Affair

Graham Greene

成田悦子訳


BOOK ONE

一つの物語は、始まりは言うまでもなく、終わりさえ持たない。思いのまま人は、振り返り、同じく前方を見晴らし、経緯(いきさつ)のその瞬間を選ぶ。「人は、選ぶ」と、プロフェッショナルな作家の揺らぐ自負から、僕は言う。その人ー彼は何かにつけ、真正面から注目される中ーその専門的技量ゆえに称えられて来たが、僕自身の事実に照らし合わせて、公有地のあの真っ暗で湿った一月の夜、1946年、降る雨の広大な川を傾きながら渡ろうとするヘンリ・マイルズの様子を選ぶだろうか。それとも、こうした像が僕を選んだのか?僕の職業の慣例に従うと、まさにそこで始まると、好都合であるし、正しいが、もしあの時、僕が神を信じていたのなら、僕は僕の肘を引っ張る手、暗示、「彼に話しかけて。彼は、まだ貴方と会ってない。」を信じても、また良かった。

2021年12月4日土曜日

My Lost City34/Francis Scott Key Fitzgerald

もっといいお話にしたいので、今日から少しずつ手を加えます。2022/10/27~11/29


My Lost City

Francis Scott Key Fitzgerald

There was first the ferry boat moving softly from the Jersey shore at dawn―the moment crystallized into my first symbol of New York. Five years later when I was fifteen I went into the city from school to see Ina Claire in The Quaker Girl and Gertrude Bryan in Little Boy Blue. Confused by my hopeless and melancholy love for them both, I was unable to choose between them一so they blurred into one lovely entity, the girl. She was my second symbol of New York. The ferry boat stood for triumph, the girl for romance. In time I was to achieve some of both, but there was a third symbol that I have lost somewhere, and lost for ever.I found it on a dark April afternoon after five more years. 

'Oh, Bunny,' I yelled. 'Bunny!' 

そこには、初め、夜明けにジ+ージ海岸から、音もなく滑り出すフェリ・ボウトゥがあった。一 その瞬間は、僕のニュ一・ヨークの最初の象徴として結晶するのだ。五年後、僕が15になった時、ザ・クエィカ・ガールの中のアイナ・クレアやザ・リトゥル・ボゥイ・ブルーの中のガートゥルードゥ・ブライアンに会いたくて、僕は、学校から街中(まちなか)に通い詰めた。彼女達のどちらも追い求める、僕の為す術のない、切なく熱い思いに当惑し、僕は、彼女達の間(はざま)にあって、選ぶに選べなかった。一挙句の果て、彼女達は、その娘(むすめ)、一人の魅力的な存在の内に影を潜めた。彼女は、僕のニュ一・ヨークの二番目の象徴だった。フェリ・ボウトゥは成功の姿を、その娘(むすめ)は恋の姿をしていた。その内、僕は、両者の何れかを手に入れる筈だった。が、何処かで見失い、やがて永遠に失ってしまった三番目の象微が、そこに現れた。

更に五年後、暗い四月の午後、僕はそれを探し当てた。

「オウ、バニ。」僕は叫んだ。「バニ!」

He did not hear me―my taxi lost him, picked him up again half a block down the street. There were black spots of rain on the sidewalk and I saw him walking briskly through the crowd wearing a tan raincoat over his inevitable brown get-up; I noted with a shock that he was carrying a light cane.

彼は、僕に耳を貸さなかった―僕のタクシは、彼を見失い、通りを半ブロック下って、再び彼に同行した。そこで、歩道は雨の黒い斑点で覆われ、僕は、彼らしいお決まりの茶の服装の上に、黄褐色のレインコゥトゥを着て、人込みを颯爽と歩く彼を見た。彼は、ほっそりとしたスティクを持っていたので、僕は、衝撃と共に注目した。

“Bunny!” I called again, and stopped. I was still an undergraduate at Princeton while he had become a New Yorker. This was his afternoon walk, this hurry along with his stick through the gathering rain, and as I was not to meet him for an hour it seemed an intrusion to happen upon him engrossed in his private life. But the taxi kept pace with him and as I continued to watch I was impressed: he was no longer the shy little scholar of Holder Court―he walked with confidence, wrapped in his thoughts and looking straight ahead, and it was obvious that his new background was entirely sufficient to him. I knew that he had an apartment where he lived with three other men, released now from all undergraduate taboos, but there was something else that was nourishing him and I got my first impression of that new thing the Metropolitan spirit.

「バニ!」僕はもうー度呼び掛け、そして止めた。僕は、末だプリンストンの一学生だったが、彼は、ニューヨーカに相応しかった。これは、彼の午後の散歩だ。勢いを増す雨を突き、彼のスティクを持ったこの急ぎ足、それに、僕は、彼にー時間会う予定はなかったので、自らの私生活に専心する彼に偶然出食わした事は、侵害のように思われた。それでもタクシは、歩調を合わせ、僕は、見守り続けるに連れ、自ずと感心した。彼は、もはや、ホゥルダ・コートゥの内気な目立たない学生ではなかった。―彼は自信を漲らせて歩いた。自身の思索で身を包み、真直ぐ前を見据えながら、それに、彼の新しい背景は、彼にはすべからく満ち足りたものであるということ、それは明らかだった。彼が他の三人の男と暮らすアパートゥを、彼は持ち、今や、あらゆる大学生としての禁制から解放されているんだと、僕は悟った。 何れにせよ、そこには、彼を育んでいる他の何かがあり、僕は、その新しい事実、都会人の気風といった僕の第ー印象を得た。

Up to this time I had seen only the New York that offered itself for inspection - I was Dick Whittington up from the country gaping at the trained bears, or a youth of the Midi dazzled by the boulevards of Paris. I had come only to stare at the show, though the designers of the Woolworth Building and the Chariot Race Sign, the producers of musical comedies and problem plays, could ask for no more appreciative spectator, for I took the style and glitter of New York even above its own valuation. 

この時まで、僕は、見物のためにそのものを提供するニューヨークだけを見て来たー僕は訓練された熊をポカンと見ているお上りさんのディック・フィッティントンか、はたまたパリの大通りに目が眩んだミディの若者だった。僕は、ショウに見入るためにだけやって来た。尤(もっと)も、ウールワース・ビルディングのデザイナやチャリアトゥ・レイス・サイン、ミュージカル・コメディのプロデューサや問題劇は、この上なく目の肥えた観客を招けはしても、僕は、それ自体の評価の上に尚、ニュー・ヨークの様式や華麗さを求めたんだもの。

But I had never accepted any of the practical anonymous invitations to debutante balls that turned up in an undergraduate's mail, perhaps because I felt that no actuality could live up to my conception of New York's splendour. Moreover, she to whom I fatuously referred as 'my girl'was a Middle Westerner, a fact which kept the warm centre of the world out there, so I thought of New York as essentially cynical and heartless — save for one night when she made luminous the Ritz Roof on a brief passage through.

それにしても、僕は、学部学生の郵便物の中に、折り返した舞踏会デビューへのありきたりの匿名の招待状の一枚も、全く受け取ったことがないのは、おそらく、僕が、どんな現実も、ニュー・ヨークの光輝から成る僕の考えを実践できないと感じていたからだ。その上、僕が愚かにも「マイ・ガール」と呼ぶ彼女は、米国中西部出身者で、そこ以外、世界の最も居心地の悪い所にして置くという事実、だから僕は、本質的に冷笑的で薄情なのでー短時間の通過時、彼女がリッツの屋上を明るくした時、一夜のために貯蓄するニュー・ヨークを思った。

Lately, however, I had definitely lost her and I wanted a man's world, and this sight of Bunny made me see New York as just that. A week before, Monsignor Fay had taken me to the Lafayette where there was spread before us a brilliant flag of food, called an hors d'oeuvre, and with it we drank claret that was as brave as Bunny's confident cane -but after all it was a restaurant, and afterwards we would drive back over a bridge into the hinterland. 

最近、とかく、僕は明らかに彼女をなおざりにしがちで、それどころか僕は、男の世界を求め、バニに属するここの光景は、まさにそのまま、ニュー・ヨークを僕に見せた。一週間前、モンシニョール ・フェイは、食物の光り輝く旗、オルドゥーヴルと呼んだ、を僕たちの前に広げてみせるラファイアットゥに僕を連れて行き、僕たちは、それと一緒に、バニの自信に満ちたスティクと同様、恐れを知らぬクラレトゥを飲んだーが結局、それはいちレスタラントゥであり、その後(あと)僕たちは、後背地の中へと橋を越えて車で引き返すのだ。

The New York of undergraduate dissipation, of Bustanoby's, Shan-ley's, Jack's, had become a horror, and though I returned to it, alas, through many an alcoholic mist, I felt each time a betrayal of a persistent idealism. My participance was prurient rather than licentious and scarcely one pleasant memory of it remains from those days; as Ernest Hemingway once remarked, the sole purpose of the cabaret is for unattached men to find complaisant women. All the rest is a wasting of time in bad air.

学生遊興の、バスタノビの、シャン―リの、ジャックのニュー・ヨークは、恐怖の様相を呈し、そして僕は、そこに帰って行きはしたが、ああ、幾重ものアルコールの靄(もや)を押し分けて、僕は、その度毎に、固執する理想主義の背信が身に沁みた。僕の関係者は、放蕩なと言うより寧ろ好色で、それの愉快な記憶一つ、当時から殆ど残っていない。アーネストゥ・ヘミングウェイが、嘗て忠告したように、キャバレイの唯一の目的は、無所属の男たちに好意的な女を見つけることにある。全て休養というものは、酷い空気の中での時間潰しだ。

But。that night, in Bunny's apartment, life was mellow and safe, a finer distillation of all that I had come to love at Princeton. The gentle playing of an oboe mingled with city noises from the street outside, which penetrated into the room with difficulty through great barricades of books; only the crisp tearing open of invitations by one man was a discordant note. I had found a third symbol of New York and I began wondering about the rent of such apartments and casting about for the appropriate friends to share one with me.

しかしあの夜、バニのアパートゥメントゥで、生きることは、芳醇で恙(つつが)なく、僕がプリンストンで愛すに至った全ての見事なまでの蒸留だった。戸外の通りからの、街の喧騒と混じり合ったオゥボゥのゆるやかな演奏、それは、書籍の巨大なバリケィドゥを通過する困難を伴いながらも、部屋の中に浸透した。只、一人の男によるバリバリと引き千切る招待状の開封が耳障りな音だった。僕は、ニュー・ヨークの三つ目の象徴に気付き、そして、僕は、こんな賃貸アパートゥメントゥに疑問を持ち、僕と一部屋を共にするのにふさわしい友人を求めることに目を向けるようになった。

Fat chance - for the next two years I had as much control over my own destiny as a convict over the cut of his clothes. When I got back to New York in 1919 I was so entangled in life that a period of mellow monasticism in Washington Square was not to be dreamed of. The thing was to make enough money in the advertising business to rent a stuffy apartment for two in the Bronx. The girl concerned had never seen New York but she was wise enough to be rather reluctant. And in a haze of anxiety and unhappiness I passed the four most impressionable months of my life.

実のある巡り合わせー翌二年間、彼の衣服の切断に対する有罪判決と同じくらい、僕自身の運命の数知れぬ支配を許した。僕が、1919年、ニュー・ヨークに戻った時、僕は、生きるにはあまりにも混乱を来していたので、ワシントン広場の熟した修道主義のピァリアドゥは、夢想されることもなかった。問題は、ブリンクスで二人用の風通しの悪いアパートゥメントゥを借りるために広告店で十分なお金を作ることだった。当の恋人は、ニュー・ヨークを一度も訪ねなかったが、彼女は、賢明過ぎてかなり気が進まないようだった。そうして、不安と不幸の靄(もや)の中で、僕は、僕の生涯で、最も印象的な四カ月を過ごした。

New York had all the iridescence of the beginning of the world. The returning troops marched up Fifth Avenue and girls were instinctively drawn east and north towards them—we were at last admittedly the most powerful nation and there was gala in the air. As I hovered ghost-like in the Plaza Red Room of a Saturday afternoon, or went to lush and liquid garden parties in the East Sixties or tippled with Princetonians in the Biltmore Bar, I was haunted always by my other life—my drab room in the Bronx, my square foot of the subway, my fixation upon the day's letter from Alabama—would it come and what would it say?—my shabby suits, my poverty, and love. 

ニュー・ヨークは、何もかもこの世の始まりの玉虫色がかっていた。帰還軍隊は、五番アヴェニュー(南北の通り)を行進して北上し、女たちは、本能的に彼らの方へと東や北に引き寄せられたー僕たちはついに許されて、最も勢力の漲(みなぎ)る国家を成し、どこもかしこもお祭り騒ぎだった。僕は、亡霊ーの如く、土曜の午後のプラザのレドゥ・ルームの中をうろつくか、或いは、東60の酒と液体ガードゥン・パーティに向かうか、或いは、ビルトゥモア・バーのプリンストン関係者と一緒に飲むかだったのだが、僕は、何時も僕のもう一つの生活ーブロンクスの僕のつまらない部屋に取りつかれ、地下鉄の僕のくそ真面目な足取り、アラバマからのその日の手紙に向ける僕の凝視ーそれは届くのか、それは何を言おうとしているのか?ー僕のみすぼらしいスーツ、僕の窮乏、そして愛情。

While my friends were launching decently into life I had muscled my inadequate bark into midstream. The gilded youth circling around young Constance Bennett in the Club de Vingt, the classmates in the Yale-Princeton Club whooping up our first after-the-war reunion, the atmosphere of the millionaires' houses that I sometimes frequented—these things were empty for me, though I recognized them as impressive scenery and regretted that I was committed to other romance. 

僕の友人たちが、人並みに世間に出て行こうとしている間、僕は流れの真っ只中を、僕の場違いな遠吠えを押し分けて進んで来た。クラブ・ドゥ・ヴィントゥで若いコンスタンス・ベネットゥの周りを取り囲む上辺だけ立派な若者、僕たちの戦-後初めての再会に歓声を上げるイエィル‐プリンストン・クラブの級友たち、僕が、時に付き合う百万長者の家々の雰囲気、ーこうした事は、僕には虚しく、僕は、それらを印象的な景観として認め、僕がもう一つの物語に傾倒していることを悔いはしたが。

The most hilarious luncheon table or the most moony cabaret—it was all the same; from them I returned eagerly to my home on Claremont Avenue—home because there might be a letter waiting outside the door. One by one my great dreams of New York became tainted. The remembered charm of Bunny's apartment faded with the rest when I interviewed a blowsy landlady in Greenwich Village.She told me I could bring girls to the room, and the idea filled me with dismay—why should I want to bring girls to my room?—I had a girl. 

最も楽しい昼食のテイブル、或いは最も夢心地のキャバレイーそれは、皆同じだった。それらから、僕は、クレアモントゥ・アヴェニューの我が家に、熱心に戻ったー家、そこには、ドアの外で待つ一通の手紙があるかも知れなかったから。一つずつ僕のニュー・ヨークの大いなる夢又夢が、腐って行った。バニのアパートゥメントゥの懐かしい魅力が、グリーンウイチ・ヴィリジのだらしない女主人を訪問した時、休息と共に姿を消した。彼女は、部屋に女たちを連れて行けますよ、と僕に話し、その入れ知恵は、僕を呆れ返らせたーどうして僕が、僕の部屋に女を連れて行きたい?ー僕には女がいる。

I wandered through the town of 127th Street, resenting its vibrant life; or else I bought cheap theatre seats at Gray's drugstore and tried to lose myself for a few hours in my old passion for Broadway. I was a failure—mediocre at advertising work and unable to get started as a writer. Hating the city, I got roaring, weeping drunk on my last penny and went home…

僕は、127ストゥリートゥ(東西の通り)の街中(まちじゅう)をぶらついた。そのぞっとする人生を憤慨しながら、又他にも、僕は、グレイのドゥラグストーで安劇場の席を買い、僕のブロウドゥウエイへの昔の熱情に浸って、二、三時間我を忘れようとした。僕は、広告業では、落第ー二流だったし、一人前のライターとしてスタートの位置にも着けなかった。街に嫌気が差し、僕は、僕の最後のペニーをはたいて喚(わめ)くことを、酔い潰れては涙を流すことを覚え、そして家に向かった・・・

…Incalculable city. What ensued was only one of a thousand success stories of those gaudy days, but it plays a part in my own movie of New York. When I returned six months later the offices of editors and publishers were open to me, impresarios begged plays, the movies panted for screen material. To my bewilderment, I was adopted, not as a Middle Westerner, not even as a detached observer, but as the archetype of what New York wanted. This statement requires some account of the metropolis in 1920.

・・・移ろいやすい街。続いた何かは、あの俗悪な日々の千の成功物語の内のほんの一つとはいえ、それは、僕自らのニュー・ヨークに於ける映画の中で、一つの役割を果たす。僕は、六か月後、編集者の事務所に戻り、出版社が、僕に寛大だった時、監督は、演技を求め、映画は、スクリーンの人材を待ち望んでいた。僕の戸惑いに対して、僕は、選任された。中西部出身者としてではなく、冷静な監視者としてでさえない、しかしニュー・ヨークが何を求めるかの典型として。この話には、1920年の大都市についての何らかの説明が要る。

There was already the tall white city of today, already the feverish activity of the boom, but there was a general inarticulateness. As much as anyone the columnist F.P.A. guessed the pulse of the individual crowd, but shyly, as one watching from a window. Society and the native arts had not mingled—Ellen Mackay was not yet married to Irving Berlin. Many of Peter Arno's people would have been meaningless to the citizen of 1920, and save for F.P.A.'s column there was no forum for metropolitan urbanity.

そこは、既に今日の背の高い白人の都市、既に新興の熱っぽい活気が漲ってはいたが、そこには、漠然とした不確実性があった。誰もと同様、コラムニストゥF.P.Aは、個別的大衆の鼓動を強く感じ取ったが、しかし、窓から見物する者のように遠慮して。社会と生え抜きの芸術は、混じり合ってはいなかったーエレン・マッケイは、未だアーヴィン・バーリンの許へ嫁いではいなかった。ピータ・アルノの人々の多くは、1920年の市民には無意味だったのだろうが、大都市の洗練された住人向けの公開討論を、そこで催さなかったF.P.A.のコラムを保存している。

Then, for just a moment, the “younger generation” idea became a fusion of many elements in New York life. People of fifty might pretend there was still a four hundred, or Maxwell Bodenheim might pretend there was a Bohemia worth its paint and pencils—but the blending of the bright gay, vigorous elements began then, and for the first time there appeared a society a little livelier than the solid mahogany dinner parties of Emily Price Post. If this society produced the cocktail party, it also evolved Park Avenue wit, and for the first time an educated European could envisage a trip to New York as something more amusing than a gold-trek into a formalized Australian Bush.

それから、瞬(またた)く間に、「ヤンガ・ジェナレイシャン」という認識が、ニュー・ヨーク生活の幾つもの要素の融合を成し遂げた。50の人々が、そこにはまだ400いると言い張ってもかまわなかったし、又、マクスウエル・ボウデン・ハイムが、そこには、ボヘミア価値、その絵具と筆ー何れにせよ輝かしい同性愛(ゲイ)の一体化があると言い張ってもよく、精力的本領は、、その時発起し、初めてそこにエミリー・プライス・ポウストゥの堅固なマハガニー晩餐会より少し活気のある社会を垣間(かいま)見せた。仮にこの社会が、力クテイル・パーティを演出したら、それも又、パーク・アヴェニュー・ウイトゥを進化させ、そして初めて、教育されたイゥァロプ人は、形式的オーストゥレイリアの藪に分け入る金―小旅行より何かもっと面白いものとして、ニュー・ヨークへの旅を思い描けたろう。

For just a moment, before it was demonstrated that I was unable to play the role, I, who knew less of New York than any reporter of six months' standing and less of its society than any hall-room boy in a Ritz stag line, was pushed into the position not only of spokesman for the time but of the typical product of that same moment. I, or rather it was “we” now, did not know exactly what New York expected of us and found it rather confusing. Within a few months after our embarkation on the Metropolitan venture we scarcely knew any more who we were and we hadn't a notion what we were. 

瞬く間に、僕が、任務を果たせなかったと論証される前、リッツ雄鹿戦闘部隊のホール―ルーム・ボウイより、その社会について殆ど、六カ月立ったままのどんなリポータよりニュー・ヨークについて殆ど無知だった僕は、時流向けスポウクスマンについてだけでなく、その同じ瞬間の典型的な創作品についても、局面へと突き動かされた。僕は、と言うより寧ろ、それは今や、「僕たち」は、だったが、ニュー・ヨークが、僕たちに何を期待したか、を必ずしも分かってはいなかったし、寧ろそれに混乱を覚えた。僕たちの大都市冒険的事業への乗船後、数カ月以内では、僕たちが何者かを、それ以上殆ど僕たちは知らなかったし、僕たちがどれ程の者か、僕たちは、見解を持たなかった。

A dive into a civic fountain, a casual brush with the law, was enough to get us into the gossip columns, and we were quoted on a variety of subjects we knew nothing about. Actually our “contacts” included half a dozen unmarried college friends and a few new literary acquaintances—I remember a lonesome Christmas when we had not one friend in the city, nor one house we could go to. Finding no nucleus to which we could cling, we became a small nucleus ourselves and gradually we fitted our disruptive personalities into the contemporary scene of New York. Or rather New York forgot us and let us stay.

都市の源泉への飛び込み、法律相手の思いがけない小競り合いは、僕たちをゴシップ欄に陥れるのに十分で、僕たちが何も知らなかった様々な話題に、僕たちは、引き合いに出された。現に、僕たちの「付き合い」は半ダースの未婚の学友や二、三の新しい文学仲間ー僕たちが街に友達の一人も、又、僕たちが尋ねられる家一軒も持たなかった時、一人っきりのクリスマスを、僕は覚えている。僕たちが執着できる中心が見当たらないまま、僕たちは、つまらない自己執着の状態に陥り、徐々に僕たちは、ニュー・ヨークの同時代の光景の中に、僕たちの分裂した人格をはめ込んだ。というより寧ろ、ニュー・ヨークは、僕たちを忘れて置きながら、僕たちを留まらせた。

Thi s is not an account of the city's changes but of the changes in this writer's feeling for the city. From the confusion of the year 1920 I remember riding on top of a taxicab along deserted Fifth Avenue on a hot Sunday night, and a luncheon in the cool Japanese gardens at the Ritz with the wistful Kay Laurel and George Jean Nathan, and writing all night again and again, and paying too much for minute apartments, and buying magnificent but broken-down cars. The first speak-easies had arrived, the toddle was passe, the Montmartre was the smart place to dance and Lillian Tashman's fair hair weaved around the floor among the enliquored college boys. 

これは、都市の変化ではなく、都市に対するこの執筆者の感覚の変化の報告である。1920年の混迷から、僕は、熱狂的日曜の夜に人影のない五番アヴェニューをタクシの先端に乗ったこと、それに物思いに沈んだケイ・ローレルやジョージ・ジーン・ネイサンとのリッツの落ち着いた日本庭園での昼食会、それに何度も何度も徹夜して書いたこと、それに取るに足りないアパートゥマントゥのために随分たくさん支払ったこと、それに素晴らしいとはいえ、ポンコツの車を買ったことを覚えている。初対面の話の気楽さには到達し、よちよち歩きは時代遅れで、モンマルトルは、ダンスをするには気の利いた場所で、リリアン・タシュマンの金髪は、フロアを囲む大学生たちの間を縫うように進んだ。

The plays were “Declassee” and “Sacred and Profane Love”, and at the Midnight Frolic you danced elbow to elbow with Marion Davies and perhaps picked out the vivacious Mary Hay in the pony chorus. We thought we were apart from all that; perhaps everyone thinks they are apart from their milieu. We felt like small children in a great bright unexplored barn. Summoned out to Griffith's studio on Long Island, we trembled in the presence of the familiar face of the “Birth of a Nation”; later I realized that behind much of the entertainment that the city poured forth into the nation there were only a lot of rather lost and lonely people. 

芝居は、「デクラスィ―(退役)」「神聖にして世俗的愛」又、真夜中の遊戯では、あなたは、マリアン・デイヴィ―ズと肘を絡ませて踊ったり、多分、ポウニ・コーラスで溌剌としたメアリ・ヘイをピックアップしたりする。僕たちは、僕たちがその全てから離れていると思った。多分、彼らは、彼らの境遇からかけ離れていると誰もが思う。僕たちは、やけに明るい未探検の納屋の中の幼い子供のように感じた。ロング・アイランドゥの上のグリッフィスの放送室に招集され、僕たちは、「国家の生誕」という打ち解けた表情に直面して身震いした。後日、僕は、多くのエンターテインマントゥの背後で、都市は、国家の中に前方を注ぎ込むということ、そこには、只、たくさんの、寧ろ、道に迷い、孤立した人々がいるだけだと悟った。

The world of the picture actors was like our own in that it was in New York and not of it. It had little sense of itself and no centre: when I first met Dorothy Gish I had the feeling that we were both standing on the North Pole and it was snowing. Since then they have found a home but it was not destined to be New York.

映画俳優の世界、それはニュー・ヨークにいながら、それ(ニュー・ヨーク)製ではない僕たち自身に似ていた。それは、それ自身の意識はほとんど持たず、中核がない。僕が、最初にドロスィ・ギシュに会った時、僕たちは揃って北極に立っていて、そこに雪が降っているという感触を抱いた。それ以来、彼らは、一軒の家を探し出したところで、それがニュー・ヨークだと運命づけられなくなった。

When bored we took our city with a Huysmans-like perversity. An afternoon alone in our “apartment” eating olive sandwiches and drinking a quart of Bushmill's whisky presented by Zoe Atkins, then out into the freshly bewitched city, through strange doors into strange apartments with intermittent swings along in taxis through the soft nights.

うんざりすると、僕たちは、ユイスマンスーつむじ曲がりのような、を僕たちの街に連れて来た。オリーヴ・サンドゥウイッティを食べながら、ゾウ・アトゥキンスに贈られたブシュミルのウィスキ、一クオートゥを飲みながら、僕たちの「アパートゥマントゥ」で1人きりの午後、その時、新たに魔法をかけられた街の中を通り抜け、見知らぬアパートゥマントゥの中の見知らぬドアを通して、静かな夜じゅう、タクシの中を伝って断続的にスイングする。

At last we were one with New York, pulling it after us through every portal. Even now I go into many flats with the sense that I have been there before or in the one above or below—was it the night I tried to disrobe in the Scandals, or the night when (as I read with astonishment in the paper next morning) “Fitzgerald Knocks Officer This Side of Paradise”? Successful scrapping not being among my accomplishments, I tried in vain to reconstruct the sequence of events which led up to this denouement in Webster Hall. 

ついに、僕たちは、あらゆる橋門を通って、僕たちの後ろにそれを引き寄せながら、ニュー・ヨークと一体化した。今でも、僕は、前にそこへ行ったことがあるという感覚と共に、多くのフラトゥに入るか、或いは上だったか下だったかその一つの中でーそれは、僕がスカンドゥルの中で脱がせようとした夜だったか、或いは、(僕は、翌朝、驚いて新聞に読み入るように)、「フィッツジェラルドゥ、『パラダイスのこちら側』の幹事をこきおろす」夜だったか?、僕は、僕の功績の中にない成功の断片、ウエブスタ・ホールで、この大団円に導いた出来事の連続を虚しく再現しようとした。

And lastly from that period I remember riding in a taxi one afternoon between very tall buildings under a mauve and rosy sky; I began to bawl because I had everything I wanted and knew I would never be so happy again.It was typical of our precarious position in New York that when our child was to be born we played safe and went home to St. Paul—it seemed inappropriate to bring a baby into all that glamour and loneliness. But in a year we were back and we began doing the same things over again and not liking them so much.

そして僕は、藤色とバラ色の空の下、非常に高いビルディングの真ん中で、或る午後、タクシに乗り込んだのを覚えているその時期からやっと、欲しかったもの全てを僕は持ち、僕は二度とこれ程幸せにはならないだろうと得心したので、大声で僕は叫び出した。それは、僕たちのニュー・ヨークでのあやふやな身分の典型だった。僕たちの子供が、生まれる筈だった頃、僕たちは、無難に振舞い、セイントゥ・ポール目指して家路に着いたーあの魅惑と孤独の真っ只中へ赤ちゃんを連れて行くこと、それははいいことではないように思えた。しかし、一年の内に、僕たちは、後戻りし、僕たちは、それがそんなに気に入ってもいないのに、又、同じことを繰り返し始めた。

 We had run through a lot, though we had retained an almost theatrical innocence by preferring the role of the observed to that of the observer. But innocence is no end in itself and as our minds unwillingly matured we began to see New York whole and try to save some of it for the selves we would inevitably become.

僕たちは、一つの定めを走り抜けて来た、監視者の内、それに監視される者の役割を好むことで、ほとんど芝居じみた無邪気さを僕たちは、持ち続けはしたが。しかし、無知は、そのものに終わりがなく、僕たちの考えが、しぶしぶ成熟するに連れ、僕たちは、ニュー・ヨーク全体を見始め、僕たちが必ず相応しくなろうとした自分自身のために、その一部を取って置こうとする。

It was too late—or too soon. For us the city was inevitably linked up with Bacchic diversions, mild or fantastic. We could organize ourselves only on our return to Long Island and not always there. We had no incentive to meet the city half way. My first symbol was now a memory, for I knew that triumph is in oneself; my second one had grown commonplace—two of the actresses whom I had worshipped from afar in 1913 had dined in our house.

それは、遅過ぎたのかー或いは早過ぎたのか。僕たちの所為で、都市は、当然のようにバッカスの娯楽、大人しいか、空想的、と連結された。僕たちは、ロング・アイランドゥ、必ずしもそこではなかったが、への僕たちの帰還に関してだけは、自ずと団結できた。僕たちは、都市と交わる動機をほとんど持たなかった。僕の最初の象徴は、今は単なる思い出、何故なら、勝利は、自らの中にあると分かったから。僕の二番目のそれは、陳腐なものになりー僕が、1913年以来ずっと熱愛した女優二人は、僕たちの家で食事をした。

 But it filled me with a certain fear that even the third symbol had grown dim—the tranquillity of Bunny's apartment was not to be found in the ever-quickening city. Bunny himself was married, and about to become a father, other friends had gone to Europe, and the bachelors had become cadets of houses larger and more social than ours. By this time we “knew everybody”—which is to say most of those whom Ralph Barton would draw as in the orchestra on an opening night.

それにしても、三番目の象徴まで、曖昧(あいまい)になってしまった、それは、確実な不安をもって僕を追い詰めた。-バニのアパートゥマントゥの平穏は、常態的急進都市に見受けられることはなかった。バニその人は、結婚して、一人の父親になろうとしていたし、他の友人たちは、イウァラプに行ってしまい、独り者は、僕たちの属するものより、大規模でもっと社会的な劇場の幹部候補生になっていた。この頃までに、僕たちは、「全ての人を知った」ーそれは、開演の夜、オ―ケストゥラでのように、ラルフ・バートンが描こうとするそれらの大半を言うのだ。

But we were no longer important. The flapper, upon whose activities the popularity of my first books was based, had become passe by 1923—anyhow in the East. I decided to crash Broadway with a play, but Broadway sent its scouts to Atlantic City and quashed the idea in advance, so I felt that, for the moment, the city and I had little to offer each other. I would take the Long Island atmosphere that I had familiarly breathed and materialize it beneath unfamiliar skies.

しかし、僕たちは、もはや重要ではなかった。僕の初めての本の人気がその活躍の基底となったフラッパは、1923年までにー何れにせよ東部では、時代遅れになってしまった。僕は、戯曲を持って、ブロゥドゥウエイに押し掛けることにしたが、ブロゥドゥウエイは、そのスカウトゥをアトゥランティク・スィティに送り、前もって着想を破棄した。そこで僕は、さしあたり、その街と僕は、互いに提供し合うことは殆どないのだと、察した。不慣れな空の下、僕は無遠慮に呼吸をし、それを実現するというロング・アイランドゥの環境を、僕は必要とするのだ。

It was three years before we saw New York again. As the ship glided up the river, the city burst thunderously upon us in the early dusk—the white glacier by the Battery swooping down like a strand of a bridge to rise into “uptown”a miracle of foamy light suspended by the stars. A band started to play on deck, but the majesty of the city made the march trivial and tinkling. From that moment I knew that New York, however often I might leave it, was home.

それは、僕たちが再びニュー・ヨークを見る三年前だった。船が川を滑るように上るに連れ、黄昏れ始めた都市は、僕たちの上で雷鳴のように炸裂したー「アップタウン(住宅地区)」泡のような光の奇跡の中に乗り上げるため、まるで橋の座礁のように襲い掛かる一連の白い氷河は、星によって吊るされている。デックでバンドゥが演奏し始めたが、都市の威厳は、つまらない、音を立てるだけのマーチを作った。その瞬間から、僕は、あのニュー・ヨークは、どんなに繰り返し僕がそれを置き去りにしたところで、故郷なのだと認識した。

The tempo of the city had changed sharply. The uncertainties of 1920 were drowned in a steady golden roar and many of our friends had grown wealthy. But the restlessness of New York in 1927 approached hysteria. The parties were bigger—those of Conde Nast, for example, rivalled in their way the fabled balls of the nineties; the pace was faster—the catering to dissipation set an example to Paris; the shows were broader, the buildings were higher, the morals were looser and the liquor was cheaper; but all these benefits did not really minister to much delight. 

都市のテムポゥは、急に変わった。1920年の無常は、確固とした繁栄のどよめきにかき消され、僕たちの友人の多くが、裕福になった。それにしても、1927年のニュー・ヨークの動揺は、ヒスティアリアの域に近付いた。パーティは、より大規模になった。ーコンデ・ナストゥのそれは、例えば、彼らの流儀で張り合った90の作り物の玉、そのペイスは、より速くー濫費がちのケイタリングは、パリスにお手本を示した。そのショウは、より広範囲に亘り、ビルディングは、尚高くなり、モラルは更に弛み、酒はますます安くなった。しかし、これらの利益全て、実際、多くの楽しみに奉仕しなかった。

Young people wore out early—they were hard and languid at twenty-one, and save for Peter Arno none of them contributed anything new; perhaps Peter Arno and his collaborators said everything there was to say about the boom days in New York that couldn't be said by a jazz band. Many people who were not natural alcoholics were lit up four days out of seven, and frayed nerves were strewn everywhere; groups were held together by a generic nervousness and the hangover became a part of the day as well allowed-for as the Spanish siesta. Most of my friends drank too much—the more they were in tune to the times the more they drank. And so effort per se had no dignity against the mere bounty of those days in New York, a depreciatory word was found for it: a successful programme became a “racket”—I was in the “literary racket”.

若い人々は、早くに外に出た。ー彼らは、21にして勤勉だが熱意がなく、ピーター・アルノを除いて、彼らの内、誰一人、新たに何らかの寄与をした者はいない。多分、ピーター・アルノと彼の共著者たちは、ジャズ・バンドゥによって語られようもないニュー・ヨークの急発展期について、そこで語るべきである全てを語った。なるべくしてなったアルカホリックではなかった多くの人々が、7から解き放たれ4日を光の下に置かれ、すり減らされた神経は、至る所に撒き散らされた。群れは、一般的な興奮によって、互いに制御され合い、二日酔いが、スペイン風の午睡同様ー斟酌(しんしゃく)され、昼間の務めになった。僕の友達の大部分が、あまりにも飲み過ぎた。ー彼らは、一致して時代に便乗すればするほど、彼らはますます飲んだ。だから、努力そのものが、ニュー・ヨークのあの当時の単なる気前の良さの前では、なんの価値もなかった。それに対する軽蔑的な言葉が、見受けられた。成功したプロゥグラムは、「ラキットゥ(大混乱)」になった。ー僕は、「文学のラキットゥ(大混乱)」の只中にいた。

We settled a few hours from New York and I found that every time I came to town I was caught into a complication of events that deposited me a few days later in a somewhat exhausted state on the train for Delaware. Whole sections of the city had grown rather poisonous, but invariably I found a moment of utter peace in riding south through Central Park at dark towards where the facade of 59th Street thrusts its lights through the trees. There again was my lost city, wrapped cool in its mystery and promise. But that detachment never lasted long—as the toiler must live in the city's belly, so I was compelled to live in its disordered mind.

僕たちは、ニュー・ヨークから2、3時間に住み、僕が町に出かける度毎に、僕は、いざこざの縺(もつ)れに巻き込まれるんだと僕は気付いた。それは、数日後、デラウェアに向かう車上、僕を幾分へとへとの状態に置いた。都市の全区域が、かなり有害になっていた。しかし、変わることなく、 59番ストゥリートゥの正面が、木々を通り抜けたその明かりを押し分ける方向に暗闇のセントゥラル・パークを通って、南を走破する時に、全くの平穏の瞬間を僕は見い出した。そこに、再び、その神秘性と約束に冷静さを包んだ僕の夢中になった街はあった。しかし、その超俗は、長くは続かなかったー使役人が、都市の腹部に住まなければならないように、そう、僕は、その乱れた心に、住まざるを得なかった。

Instead there were the speakeasies—the moving from luxurious bars, which advertised in the campus publications of Yale and Princeton, to the beer gardens where the snarling face of the underworld peered through the German good nature of the entertainment, then on to strange and even more sinister localities where one was eyed by granite-faced boys and there was nothing left of joviality but only a brutishness that corrupted the new day into which one presently went out. Back in 1920 I shocked a rising young business man by suggesting a cocktail before lunch. In 1929 there was liquor in half the downtown offices, and a speakeasy in half the large buildings.

その代わり、そこには、潜(もぐ)り酒場があった。ー豪奢なバーから、それは、イエイルやプリンストンの構内出版物に広告を出していたが、暗黒街の歯を剥いて唸(うな)る顔が、余興の、人の良いドイツ人を通してじっと見つめるビアガードゥンへ、それに、人が意固地な表情の少年たちによってじろじろ見られる、奇妙で、更に邪悪でさえある場所の方への引っ越しで、そこには陽気どころか粗野なところも全く残されていなかった。人が、今留守となると、新規巻き直しの日を駄目にした。1920年に遡(さかのぼる)と、僕は、昼食の前にカクテイルを勧めて、上り坂の若いビズニス・マンをぎょっとさせた。1929年には、繁華街の会社の半分に酒が、大きなビルディングの半分に一軒のもぐり酒場があった。

One was increasingly conscious of the speakeasy and of Park Avenue. In the past decade Greenwich Village, Washington Square, Murray Hill, the chateaux of Fifth Avenue had somehow disappeared, or become unexpressive of anything. The city was bloated, gutted, stupid with cake and circuses, and a new expression “Oh yeah?” summed up all the enthusiasm evoked by the announcement of the last super-skyscrapers. My barber retired on a half million bet in the market and I was conscious that the head-waiters who bowed me, or failed to bow me, to my table were far, far wealthier than I. This was no fun—once again I had enough of New York and it was good to be safe on shipboard where the ceaseless revelry remained in the bar in transport to the fleecing rooms of France.

人は、徐々にもぐり酒場とパーク・アヴェニューに気付いた。過去十年で、グリーンウイッチ・ヴィリジ、ワシントン・スクエア、マレイ・ヒル、五番アヴェニューのシャトウクスは、何故か姿を消したり、或いは、何かしら筆舌に尽くしがたいものになってしまった。都市は、膨れ上がり、腸(はらわた)を抜かれ、女たらしとストリップショウで知覚を失い、新しい言い回し「オゥ イエア?」は、究極的超摩天楼の広告によって引き起こされたあらゆる熱狂を要約した。僕の床屋は、市場(しじょう)で50万賭けて辞め、僕は、僕にお辞儀をしたり、又、僕にお辞儀をし損ったりするウエイタ長は、僕の卓に比べれば、遥かに遥かに僕より裕福だということを自覚した。これじゃあ、何の面白みもない。ー今度も、僕は、ニュー・ヨークについて十分知ったし、フランスの無一文にするだけの部屋に向かう、我を忘れてきりのないお祭り騒ぎがバーに残った船上で、安全でさえあればそれで良かった。

“What news from New York?”

「ニュー・ヨークからどんなニュース?」

“Stocks go up. A baby murdered a gangster.”

「株が上がってる。女の娘(こ)がガングを殺した。」

“Nothing more?”

「もっと何かない?」

“Nothing. Radios blare in the street.”

「何もない、レィディオゥが、通りでがなり立てている。」

I once thought that there were no second acts in American lives, but there was certainly to be a second act to New York's boom days. We were somewhere in North Africa when we heard a dull distant crash which echoed to the further-est wastes of the desert.

僕は、アメリカ暮らし、そこにはどんな二幕目もないと、嘗て思いはしたが、ニュー・ヨークの急発展期、そこには、確かに二幕目もなければならなかった。砂漠の荒れ地の更に遠くへ最も遠くへとこだました、僕たちが無感覚になる程遠方の暴落を耳にした時、僕たちは、北アフリカのどこかにいた。

“What was that?”

「あれは何?」

“Did you hear it?”

「あなたはそれを聞きました?」

“It was nothing.”

「そんなの何でもなかったよ。」

“Do you think we ought to go home and see?”

「僕たちは、家に帰って確かめるべきだとは思わない?」

“No—it was nothing.”

「いやーそんなの何でもなかった。」

In the dark autumn of two years later we saw New York again. We passed through curiously polite customs agents, and then with bowed head and hat in hand I walked reverently through the echoing tomb. Among the ruins a few childish wraiths still played to keep up the pretence that they were alive, betraying by their feverish voices and hectic cheeks the thinness of the masquerade.Cocktail parties, a last hollow survival from the days of carnival, echoed to the plaints of the wounded: “Shoot me, for the love of God, someone shoot me!”, and the groans and wails of the dying: “Did you see that United States Steel is down three more points?” My barber was back at work in his shop; again the head-waiters bowed people to their tables, if there were people to be bowed.From the ruins rose the Empire State Building, lonely and inexplicable as the Sphinx and, just as it had been a tradition of mine to climb to the Plaza Roof to take leave of the beautiful city, extending as far as eyes could reach, so now I went to the roof of the last and most magnificent of towers. 

二年後の陰鬱な秋に、僕たちは又、ニュー・ヨークを目の当たりにした。僕たちは、妙に丁寧な得意先代理店を通過し、それから、下げられた頭と手の中の帽子と共に、僕は、反響するばかりの墓を恭(うやうや)しく歩いた。廃墟の間を2、3子供じみた幽霊が、彼らの熱っぽい声と紅潮した頬によって、その虚構の薄っぺらさを曝け出しながら、彼らは生きているんだという見栄を張り続ける外(ほか)ないかのように、今尚遊んだ。カクテイル・パーティ、謝肉祭の日々からの究極の上辺だけの生存が、負傷者の告訴状に、「僕を射ち殺してくれ。神の愛の代わりに、誰か僕を射ち殺してくれ!」臨終の呻き声と咽(むせ)び声に共鳴した。「ユナイティドゥ ステイツ スティールが、三ポイントゥ以上下がっているのを、貴方気付きましたか?」僕の床屋は、彼の店の仕事に戻った。再び、ウエイタ長は、彼らの卓の人々にお辞儀をした。もし、そこにお辞儀をされる人々がいれば。廃墟から、スフィンクスのように人気(ひとけ)のない、不可解な、まるで美しい都市に分かれを告げるために、プラザ・ルーフに登ることが、僕の一家の伝統だったかのように、目が捉(とら)えられる限り延長しているエムパイア・ステイトゥ・ビルディングを浮かび上がらせた。だから今、僕は最上の最も豪勢なタウアのてっぺんに向かった。

Then I understood—everything was explained: I had discovered the crowning error of the city, its Pandora's box. Full of vaunting pride the New Yorker had climbed here and seen with dismay what he had never suspected, that the city was not the endless succession of canyons that he had supposed but that it had limits—from the tallest structure he saw for the first time that it faded out into the country on all sides, into an expanse of green and blue that alone was limitless. And with the awful realization that New York was a city after all and not a universe, the whole shining edifice that he had reared in his imagination came crashing to the ground. That was the rash gift of Alfred W. Smith to the citizens of New York.

そこで僕は、理解した―何もかも説き明かされたと。僕は、都市のこの上ない瑕疵(かし)、そのパンドーラの箱を発見した。見せつけんばかりの強い自尊心を持って、ニュー・ヨーカーは、ここに登り、都市は、果てしない峡谷の連続ではないと、彼が、嘗て想像した事もない何かを驚愕と共に見たにしても、それは限定的である、と彼は推測するー最も背の高い建築物から、彼は、初めて、それが、あらゆる方角へと国の中に、緑や青の一面の広がりの中に消えてゆくのを、人から離れると限りないのを目に焼き付けた。そして空恐ろしい実感を抱いてニュー・ヨークは、結局、単なる街で、全世界ではなく、彼が、彼の想像の内に建てた輝ける全建造物が、地面に音を立てて砕けるに至った。それは、アルフレドゥ・ダヴリュ.・スミスのニューヨーク市民への性急な贈り物だった。

Thus I take leave of my lost city. Seen from the ferry boat in the early morning, it no longer whispers of fantastic success and eternal youth. The whoopee mamas who prance before its empty parquets do not suggest to me the ineffable beauty of my dream girls of 1914. And Bunny, swinging along confidently with his cane towards his cloister in a carnival, has gone over to Communism and frets about the wrongs of southern mill workers and western farmers whose voices, fifteen years ago, would not have penetrated his study walls.

このように、僕は、僕の夢中になった街の離別を受け入れる。早朝、フェリー・ボウトゥから見えた、それは、もはやとりとめのない成功や永遠の若さについて囁きはしない。陽気に動き回るどんちゃん騒ぎをするママたち、その空っぽの寄せ木細工の床は、1914年の僕の夢見た娘たちの言葉に出来ない美しさを僕に思わせない。そしてバニーは、謝肉祭で彼の回廊の方へ彼の杖と共に自信を持って威勢よく前に進みながら、コミュニズムに惚れ込み、南部の製粉所の労働者や西部の農民たちの悪事について気をもむ。彼等の声は、15年前、彼の書斎の壁を貫通しそうもなかったのに。

All is lost save memory, yet sometimes I imagine myself reading, with curious interest, a “Daily News” issue of 1945:

思い出は別として、全て忘れている。まだ時に、僕は、1945年の発行「デイリー・ニュース」を妙に面白がって読んでいる自分自身を想像する。

MAN OF FIFTY RUNS AMUCK IN NEW YORK

50男ニュー・ヨークで暴れ狂う

Fitzgerald Feathered Many Love Nests Avers Cutie

フィッツジェラルド羽飾りを付けた数多(あまた)の愛の巣は、キューティーと主張する

Bumped Off By Two-timed Gunman

鉢合わせしたガンマンによって殺される

So perhaps I am destined to return some day and find in the city new experiences that so far I have merely read about. For the moment I can only cry out that I have lost my splendid mirage. Come back, come back, O glittering and white!

そう、多分、僕は、何時の日か戻って来て、それまで、僕が、単に読んだだけの目新しい見分(けんぶん)を、この街に探し求めることを運命付けられている。ちょっとの間、僕は、僕の輝かしい幻影を失くしてしまったと、只、悲嘆に暮れるだけでいい。甦れ、甦れ、オゥ、煌びやかさと純白よ!


終わり

2021年12月3日金曜日

My Lost City33/Francis Scott Key Fitzgerald

My Lost City

Francis Scott Key Fitzgerald

There was first the ferry boat moving softly from the Jersey shore at dawn―the moment crystallized into my first symbol of New York. Five years later when I was fifteen I went into the city from school to see Ina Claire in The Quaker Girl and Gertrude Bryan in Little Boy Blue. Confused by my hopeless and melancholy love for them both, I was unable to choose between them一so they blurred into one lovely entity, the girl. She was my second symbol of New York. The ferry boat stood for triumph, the girl for romance. In time I was to achieve some of both, but there was a third symbol that I have lost somewhere, and lost for ever.

I found it on a dark April afternoon after five more years. 

'Oh, Bunny,' I yelled. 'Bunny!' 

初めに、ジ+ージー海岸から、夜明けに音もなく滑り出すフェリーボウトゥがあった。一 その瞬間が、ニュ一・ヨークの僕の最初の象徴として結晶するのだ。五年後、僕が15になった時、ザ クエィカー・ガールの中のアイナ・クレアやザ・リトゥル・ボゥイ・ブルーの中のガートゥルードゥ・ブライアンに会いたくて、僕は、学校から街中(まちなか)に出かけた。彼女達のどちらも追い求める、僕の為す術のない、切なく熱い思いに当惑し、僕は、彼女達の間(はざま)にあって選ぶに選べなかった。一挙句の果て、彼女達は、その娘(むすめ)、一人の魅力的な存在の内に影を潜めた。彼女は、ニュ一・ヨークの僕の二番目の象徴だった。フェリーボウトゥは、成功の姿を、その娘(むすめ)は恋の姿をしていた。その内、僕は、両者の何れかを手に入れる筈だった。が、何処かで見失い、そして永遠に失ってしまった三番目の象微が現れた。

僕は、更に五年後、暗い四月の午後、それを知った。

「オーイ、バニ一。」僕は叫んだ。「バニ一!」

He did not hear me―my taxi lost him, picked him up again half a block down the street. There were black spots of rain on the sidewalk and I saw him walking briskly through the crowd wearing a tan raincoat over his inevitable brown get-up; I noted with a shock that he was carrying a light cane.

彼は、僕に耳を貸さなかった―僕のタクシは、彼を見失い、通りを半ブロック下って、再び彼に同行した。歩道は、雨の黒い斑点で覆われ、僕は、彼らしいお決まりの茶の服装の上に、黄褐色のレインコゥトゥを着て、人込みを颯爽と歩く彼を見た。彼がほっそりとしたステッキを持っていたので、僕は、衝撃と共に注目した。

“Bunny!” I called again, and stopped. I was still an undergraduate at Princeton while he had become a New Yorker. This was his afternoon walk, this hurry along with his stick through the gathering rain, and as I was not to meet him for an hour it seemed an intrusion to happen upon him engrossed in his private life. But the taxi kept pace with him and as I continued to watch I was impressed: he was no longer the shy little scholar of Holder Court―he walked with confidence, wrapped in his thoughts and looking straight ahead, and it was obvious that his new background was entirely sufficient to him. I knew that he had an apartment where he lived with three other men, released now from all undergraduate taboos, but there was something else that was nourishing him and I got my first impression of that new thing the Metropolitan spirit.

「バニー!」僕はもうー度呼び掛け、そして止めた。彼は、ニューヨーカーに相応しかったが、僕は、末だプリンストンの一学生だった。これは、彼の午後の散歩だ。勢いを増す雨を突き、彼のステッキを持ったこの急ぎ足、それに、僕は、彼にー時間会う予定はなかったので、自らの私生活に専心する彼に偶然出食わした事は、侵害のように思われた。それでもタクシは、歩調を合わせ、僕は、見守り続けるに連れ、自ずと感心した。彼は、もはや、ホゥルダ一・コートゥの内気な目立たない優等生ではなかった。―彼は自信を漲らせて歩いた。思索に耽り、真直ぐ前を見ながら、それに、彼の新しい背景は、彼にはすべからく十分であるのは明らかだった。彼が、他の三人の男と暮らすアパートゥを彼は持ち、今や、あらゆる大学生としての禁制から解放されていると、僕は知った。 何れにせよ、そこには、彼を育んでいる他の何かがあり、僕は、その新しい事実、都会人の気風といった第ー印象を得た。

Up to this time I had seen only the New York that offered itself for inspection - I was Dick Whittington up from the country gaping at the trained bears, or a youth of the Midi dazzled by the boulevards of Paris. I had come only to stare at the show, though the designers of the Woolworth Building and the Chariot Race Sign, the producers of musical comedies and problem plays, could ask for no more appreciative spectator, for I took the style and glitter of New York even above its own valuation. 

この時まで、僕は、見物のためにそのものを提供するニューヨークだけを見て来たー僕は訓練された熊をポカンと見ているお上りさんのディック・フィッティントンか、はたまたパリの大通りに目が眩んだミディの若者だった。僕は、ショウに見入るためだけにやって来た。尤(もっと)も、ウールワース・ビルディングのデザイナーやチャリアットゥ・レイス・サイン、ミュージカル・コメディーのプロデューサーや問題劇が、この上なく目の肥えた観客を誘えはしたが、僕は、それ自体の評価を超えたニュー・ヨークの様式や華麗さに惹かれたから。

But I had never accepted any of the practical anonymous invitations to debutante balls that turned up in an undergraduate's mail, perhaps because I felt that no actuality could live up to my conception of New York's splendour. Moreover, she to whom I fatuously referred as 'my girl'was a Middle Westerner, a fact which kept the warm centre of the world out there, so I thought of New York as essentially cynical and heartless — save for one night when she made luminous the

Ritz Roof on a brief passage through.

それにしても、僕は、郵便物にそれと分かる舞踏会デビューへの老練な匿名の招待状を一度も受け取ったことがなく、おそらく、僕は、どんな現実も、ニュー・ヨークの光輝から成る僕の考えに恥じないもてなしなどおよそ出来る筈がないと思うから。その上、僕が愚かにも「マイ・ガール」と呼ぶ彼女は、米国中西部出身者で、そこ以外、世界の最も居心地の悪い所にして置くという事実、そこで僕は、本質的に冷笑的で薄情なのでー短時間の通過時、彼女がリッツの屋上を明るくした時、一夜のために貯蓄するニュー・ヨークを思った。

Lately, however, I had definitely lost her and I wanted a man's world, and this sight of Bunny made me see New York as just that. A week before, Monsignor Fay had taken me to the Lafayette where there was spread before us a brilliant flag of food, called an hors d'oeuvre, and with it we drank claret that was as brave as Bunny's confident cane -but after all it was a restaurant, and afterwards we would drive back over a bridge into the hinterland. 

最近、しかし、僕は確かに彼女が分からなくなってしまった、それに僕は、男の世界が欲しかった。バニーのこの視野は、それ相応のニュー・ヨークを僕に見せた。一週間前、モンシニョール ・フェイは、食物の光り輝く旗、オルドゥーヴルと呼んだ、を僕たちの前に広げてみせるラファイアットゥに僕を連れて行き、僕たちは、それと一緒に、バニーの自信に満ちたステッキと同じくらい恐れを知らぬクラレットゥを飲んだーが結局、それは単なるレストランに他ならず、その後(あと)僕たちは、後背地の中に橋を越えて車で引き返すのだ。

The New York of undergraduate dissipation, of Bustanoby's, Shan-ley's, Jack's, had become a horror, and though I returned to it, alas, through many an alcoholic mist, I felt each time a betrayal of a persistent idealism. My participance was prurient rather than licentious and scarcely one pleasant memory of it remains from those days; as Ernest Hemingway once remarked, the sole purpose of the cabaret is for unattached men to find complaisant women. All the rest is a wasting of time in bad air.

学生遊興の、バスタノビーの、シャン―リーの、ジャックの、ニュー・ヨークは、恐怖の様相を呈し、僕は、それに帰って行った、ああ、幾重ものアルコールの靄(もや)を押し分けて、が僕は、その度毎に、固執する理想主義の背信が身に沁みた。僕の関係者は、乱交より寧ろ好色だったし、それの好ましい記憶一つ、当時から殆ど残っていない。。アーネストゥ・ヘミングウェイが、嘗て忠告したように、キャバレイの唯一の目的は、無所属の男たちに好意的な女を見つけることにある。全て休養というものは、酷い空気の中での時間潰しだ。

But that night, in Bunny's apartment, life was mellow and safe, a finer distillation of all that I had come to love at Princeton. The gentle playing of an oboe mingled with city noises from the street outside, which penetrated into the room with difficulty through great barricades of books; only the crisp tearing open of invitations by one man was a discordant note. I had found a third symbol of New York and I began wondering about the rent of such apartments and casting about for the appropriate friends to share one with me.

しかしあの夜、バニーのアパートゥメントゥで、生きることは、芳醇で恙(つつが)なく、僕がプリンストンで愛すことになった全ての見事なまでの蒸留、戸外の通りから街の喧騒と混じり合ったオゥボゥのゆるやかな演奏、それらは、書籍のバリケィドゥを通過する困難と共に部屋の中に浸透した。只、一人の男によるバリバリと引き千切る招待状の開封が耳障りな音だった。僕は、ニュー・ヨークの三つ目の象徴に気付いた。それから、僕は、こんな賃貸アパートゥメントゥと僕と一部屋を共にするのにふさわしい友人を探し回った。

Fat chance - for the next two years I had as much control over my own destiny as a convict over the cut of his clothes. When I got back to New York in 1919 I was so entangled in life that a period of mellow monasticism in Washington Square was not to be dreamed of. The thing was to make enough money in the advertising business to rent a stuffy apartment for two in the Bronx. The girl concerned had never seen New York but she was wise enough to be rather reluctant. And in a haze of anxiety and unhappiness I passed the four most impressionable months of my life.

実のある巡り合わせーそれから二年間、彼の衣服の切断に対する有罪判決同様、しばしば僕自身の運命の支配を許した。僕が、一九一九年、ニュー・ヨークに戻った時、僕が生きるにはあまりにも混乱を来したので、ワシントン広場で、円満な修道主義のピァリアドゥは、夢想されることもなかった。問題は、ブリンクスで二人用の風通しの悪いアパートゥメントゥを借りるために広告店で十分なお金を作ることだった。当の恋人は、ニュー・ヨークを一度も訪ねなかったが、彼女は、賢明過ぎてかなり気が進まないようだった。そうして、不安と不幸の靄(もや)の中で、僕は、僕の生涯で四つの最も感傷的な月を過ごした。

New York had all the iridescence of the beginning of the world. The returning troops marched up Fifth Avenue and girls were instinctively drawn east and north towards them—we were at last admittedly the most powerful nation and there was gala in the air. As I hovered ghost-like in the Plaza Red Room of a Saturday afternoon, or went to lush and liquid garden parties in the East Sixties or tippled with Princetonians in the Biltmore Bar, I was haunted always by my other life—my drab room in the Bronx, my square foot of the subway, my fixation upon the day's letter from Alabama—would it come and what would it say?—my shabby suits, my poverty, and love. 

ニュー・ヨークは、この世の始まりにも似て、何もかも玉虫色がかっていた。帰還軍隊は、五番アヴェニュー(南北の通り)を行進して北上し、女たちは、本能的に彼らの方へと東や北に引き寄せられたー僕たちはついに許されて最も勢力の漲(みなぎ)る国家を成し、祝祭は盛り上がった。僕は、亡霊ーの如く土曜の午後のプラザのレッドゥルームの中でうろつくか。或いは、東60の酒と液体ガードゥンパーティに向かうか、或いは、ビルトゥモアバーのプリンストン関係者と一緒に飲み続けるかだったのだが、僕は、何時も僕のもう一つの生活ーブロンクスの僕のほんの僅かな部屋に取りつかれ、地下鉄の僕のくそ真面目な足取り、アラバマからのその日の手紙に向ける僕の凝視ーそれは届くのか、それは何を言おうとしているのか?ー僕のみすぼらしいスーツ、僕の窮乏、そして愛情。

While my friends were launching decently into life I had muscled my inadequate bark into midstream. The gilded youth circling around young Constance Bennett in the Club de Vingt, the classmates in the Yale-Princeton Club whooping up our first after-the-war reunion, the atmosphere of the millionaires' houses that I sometimes frequented—these things were empty for me, though I recognized them as impressive scenery and regretted that I was committed to other romance. 

僕の友人たちは、人並みに世間に出て行こうとしていたが、僕は流れの真っ只中を僕の場違いな遠吠えを押し分けて進んで来た。クラブ・ドゥ・ヴィントゥで若いコンスタンス・ベネットゥの周りを取り囲む上辺だけ立派な若者、僕たちの戦後初めての再会に歓声を上げるイエィル・プリンストンクラブの級友たち、僕が、時に付き合う百万長者の家々の雰囲気、ーそこにある何もかもが、僕には虚しく、僕は、それを印象的な景観として認め、僕がもう一つの物語に傾倒していることを悔いはしたが。

The most hilarious luncheon table or the most moony cabaret—it was all the same; from them I returned eagerly to my home on Claremont Avenue—home because there might be a letter waiting outside the door. One by one my great dreams of New York became tainted. The remembered charm of Bunny's apartment faded with the rest when I interviewed a blowsy landlady in Greenwich Village.She told me I could bring girls to the room, and the idea filled me with dismay—why should I want to bring girls to my room?—I had a girl. 

最も楽しい昼食のテイブル、或いは最も夢心地のキャバレイーそれは、皆同じ、それらから、僕は、クレアモントゥ・アヴェニューの我が家に、熱心に戻った。ーそこには、ドアの外で待つ一通の手紙があった。一つずつ僕のニュー・ヨークの大いなる夢又夢が、腐って行った。バニーのアパートゥメントゥの懐かしい魅力が、グリーンウイッチ・ヴィリッジのだらしない女主人を訪問した時、休息と共に姿を消した。 彼女は、部屋に女たちを連れて行けますよ、と僕に話し、その入れ知恵は、僕を呆れ返らせたーどうして僕が、僕の部屋に女を連れて行きたい?ー僕には女がいる。

I wandered through the town of 127th Street, resenting its vibrant life; or else I bought cheap theatre seats at Gray's drugstore and tried to lose myself for a few hours in my old passion for Broadway. I was a failure—mediocre at advertising work and unable to get started as a writer. Hating the city, I got roaring, weeping drunk on my last penny and went home…

僕は、127ストゥリートゥ(東西の通り)の街中(まちじゅう)をぶらついた。そのぞっとするような人生を憤慨しながら、又他にも、僕は、グレイのドゥラッグストーで安劇場の席を買い、僕のブロウドゥウエイへの昔の熱情に浸って、二、三時間我を忘れようとした。僕は、広告業では、落第ー二流だったし、一人前のライターとしてスタートの位置にも着けなかった。街に嫌気が差し、僕は、僕の最後のペニーをはたいて喚(わめ)きながら、涙を流しながら酔い潰れ、家に向かった・・・

…Incalculable city. What ensued was only one of a thousand success stories of those gaudy days, but it plays a part in my own movie of New York. When I returned six months later the offices of editors and publishers were open to me, impresarios begged plays, the movies panted for screen material. To my bewilderment, I was adopted, not as a Middle Westerner, not even as a detached observer, but as the archetype of what New York wanted. This statement requires some account of the metropolis in 1920.

・・・移ろいやすい街、続いた何かは、あの俗悪な日々の千の成功物語の内のほんの一つとはいえ、それは、僕自らのニュー・ヨークに於ける映画の中で、一つの役割を果たす。僕は、六か月後、編集者の事務所に戻り、出版社が、僕に寛大だった時、監督は、演技を求め、映画は、スクリーンの人材を待ち望んでいた。僕の戸惑いに、僕は、選任された。中西部出身者としてではなく、冷静な監視者としてでさえなく、ニュー・ヨークが何を求めるかの典型として。この話には、1920年の大都市についての何らかの説明が要る。

There was already the tall white city of today, already the feverish activity of the boom, but there was a general inarticulateness. As much as anyone the columnist F.P.A. guessed the pulse of the individual crowd, but shyly, as one watching from a window. Society and the native arts had not mingled—Ellen Mackay was not yet married to Irving Berlin. Many of Peter Arno's people would have been meaningless to the citizen of 1920, and save for F.P.A.'s column there was no forum for metropolitan urbanity.

既に今日の高く青褪めた街はあり、既に新興の熱っぽい活気があったが、一般的不確実性があった。誰もと同様、コラムニストゥF.P.Aは、個別的大衆の鼓動を強く感じ取りはした。しかし、窓から見物する人の様にはにかみながら。社会と生え抜きの芸術は、混じり合ってはいなかった。ーエレン・マッケイは、未だアーヴィン・バーリンの許へ嫁いではいなかった。ピーター・アルノの人々の多くは、1920年の市民には無意味だったのだろうが、大都市の洗練された住人向けの公開討論がなかったF・P・Aのコラムを保存している。

Then, for just a moment, the “younger generation” idea became a fusion of many elements in New York life. People of fifty might pretend there was still a four hundred, or Maxwell Bodenheim might pretend there was a Bohemia worth its paint and pencils—but the blending of the bright gay, vigorous elements began then, and for the first time there appeared a society a little livelier than the solid mahogany dinner parties of Emily Price Post. If this society produced the cocktail party, it also evolved Park Avenue wit, and for the first time an educated European could envisage a trip to New York as something more amusing than a gold-trek into a formalized Australian Bush.

それから、瞬(またた)く間に、「ヤンガー・ジェナレイシャン」という認識が、ニュー・ヨーク生活の幾つもの要素の融合を成し遂げた。50の人々が、そこにはなお400あると言い張ってもかまわなかったし、又マクスウエル・ボウデン・ハイムが、そこには、ボヘミア価値、その絵具と筆ー何れにせよ輝かしい同性愛(ゲイ)の一体化があると言い張ってもよく、精力的本領は、、その時発起し、初めてそこにエミリー・プライス・ポウストゥの堅固なマハガニー晩餐会より少し活気のある社会を垣間(かいま)見せた。仮にこの社会が、力クテイル・パーティを演出したら、それも又、パーク・アヴェニュー・ウイットゥを進化させ、そして初めて、教育されたイゥァロプ人は、形式的オーストゥレイリアの藪に分け入る金―小旅行より何かもっと面白いものとして、ニュー・ヨークへの旅行を思い描けたろう。

For just a moment, before it was demonstrated that I was unable to play the role, I, who knew less of New York than any reporter of six months' standing and less of its society than any hall-room boy in a Ritz stag line, was pushed into the position not only of spokesman for the time but of the typical product of that same moment. I, or rather it was “we” now, did not know exactly what New York expected of us and found it rather confusing. Within a few months after our embarkation on the Metropolitan venture we scarcely knew any more who we were and we hadn't a notion what we were. 

瞬く間に、僕が、任務を果たせなかったと論証される前、僕、僕は、リッツ雄鹿戦闘部隊のホール―ルーム・ボウイより、その社会について、六カ月立ったままのどんなリポーターよりニュー・ヨークについて無知で、その当時のスポウクスマンだけでなく、その同じ瞬間の類型的な創作品も、務めの中に押し込まれた。僕は、と言うより寧ろ、それは今や、僕たちは、だったが、ニュー・ヨークが、僕たちに何を期待したか、を必ずしも分かってはいなかったし、寧ろそれに混乱を覚えた。僕たちの大都市冒険的事業への乗船後、数カ月以内では、僕たちが何者かを、これ以上殆ど僕たちは知らなかったし、僕たちがどれ程の者か、僕たちは、見解を持たなかった。

A dive into a civic fountain, a casual brush with the law, was enough to get us into the gossip columns, and we were quoted on a variety of subjects we knew nothing about. Actually our “contacts” included half a dozen unmarried college friends and a few new literary acquaintances—I remember a lonesome Christmas when we had not one friend in the city, nor one house we could go to. Finding no nucleus to which we could cling, we became a small nucleus ourselves and gradually we fitted our disruptive personalities into the contemporary scene of New York. Or rather New York forgot us and let us stay.

都市の源泉への飛び込み、法律相手の思いがけない小競り合いは、僕たちをゴシップ欄に陥れるのに十分だった。僕たちが何も知らなかった様々な話題に、僕たちは、引き合いに出された。現に、僕たちの「付き合い」は半ダースの未婚の学友や二、三の新しい文学仲間ー僕たちが街に友達の一人も、又、僕たちが尋ねられる家一軒も持たなかった時、一人っきりのクリスマスを僕は、覚えている。僕たちが執着できる中心が見当たらないまま、僕たちは、つまらない自己執着の状態に陥り、徐々に僕たちは、ニュー・ヨークの同時代の光景の中に、僕たちの分裂した人格をはめ込んだ。と言うより、ニュー・ヨークは、僕たちを忘れて置きながら、僕たちを留まらせる。

This is not an account of the city's changes but of the changes in this writer's feeling for the city. From the confusion of the year 1920 I remember riding on top of a taxicab along deserted Fifth Avenue on a hot Sunday night, and a luncheon in the cool Japanese gardens at the Ritz with the wistful Kay Laurel and George Jean Nathan, and writing all night again and again, and paying too much for minute apartments, and buying magnificent but broken-down cars. The first speak-easies had arrived, the toddle was passe, the Montmartre was the smart place to dance and Lillian Tashman's fair hair weaved around the floor among the enliquored college boys. 

これは、都市の変化の報告ではなく、都市に対するこの執筆者の感覚の変化である。1920年の混迷から、僕は、熱狂的日曜の夜に人影のない五番アヴェニューをタクシの先端に乗ったこと、それに物悲しそうなケイ・ローレイやジョージ・ジーン・ネイサンとのリッツの落ち着いた日本庭園での昼食、それに何度も何度も徹夜して書いたこと、それにちょっとの間のアパートゥマントゥのために随分たくさん支払ったこと、それに素晴らしいのにポンコツの車を買ったことを覚えている。最初の話の気楽さには、到達し、よちよち歩きは時代遅れで、モンマルトルは、ダンスをするには気の利いた場所で、リリアン・タッシュマンの金髪は、フロアを囲む大学生たちの間を縫うように進んだ。

The plays were “Declassee” and “Sacred and Profane Love”, and at the Midnight Frolic you danced elbow to elbow with Marion Davies and perhaps picked out the vivacious Mary Hay in the pony chorus. We thought we were apart from all that; perhaps everyone thinks they are apart from their milieu. We felt like small children in a great bright unexplored barn. Summoned out to Griffith's studio on Long Island, we trembled in the presence of the familiar face of the “Birth of a Nation”; later I realized that behind much of the entertainment that the city poured forth into the nation there were only a lot of rather lost and lonely people. 

その芝居は、「デクラスィ―(退役)」「神聖で世俗的愛」又、真夜中の遊戯では、あなたは、マリアン・デイヴィ―ズとすぐ隣で踊ったり、多分、ポウニー・コーラスで快活なメアリ・ヘイをピックアップしたりする。僕たちは、僕たちがその全てから離れていると思った。多分、それらは、それらの中心から離れていると誰もが思う。僕たちは、やけに明るい未探検の納屋の中の幼い子供のように感じた。ロング・アイランドゥの上のグリッフィスの放送室に招集され、僕たちは、「国家の生誕」という家族的表情に直面して身震いした。後日、僕は、多くのエンターテインマントゥに隠れてということ、都市は、国家の中に前方を注ぎ込む。只。そこには、たくさんの、いや、そうではなく、道に迷い、孤立した人々がいるだけだと悟った。

The world of the picture actors was like our own in that it was in New York and not of it. It had little sense of itself and no centre: when I first met Dorothy Gish I had the feeling that we were both standing on the North Pole and it was snowing. Since then they have found a home but it was not destined to be New York.

映画俳優の世界、それはニュー・ヨークにいながら、それ(ニュー・ヨーク)製ではない僕たちのものに似ていた。それは、それ自身の能力はほとんど持たず、中核がない。僕が、最初にドロスィ・ギッシュに会った時、僕たちは揃って北極に立っているという感触を抱き、雪が降っていた。それ以来、彼らは、一軒の家を探し出したところで、それがニュー・ヨークだと運命づけられてはいなかった。

When bored we took our city with a Huysmans-like perversity. An afternoon alone in our “apartment” eating olive sandwiches and drinking a quart of Bushmill's whisky presented by Zoe Atkins, then out into the freshly bewitched city, through strange doors into strange apartments with intermittent swings along in taxis through the soft nights.

うんざりすると、僕たちは、ユイスマンスーつむじ曲がりのような、を僕たちの街に連れて来た。オリーヴ・サンドゥウイッティを食べながら、ゾウ・アトゥキンスに贈られたブッシュミルのウィスキ、一クオートゥを飲みながら、僕たちのアパートゥマントゥで1人きりの午後、その時、生き生きと魔法をかけられた街の中を通り抜け、見慣れないアパートゥマントゥの中の見慣れないドアを通して、静かな夜じゅう、タクシの中を伝って断続的にスイングする。

At last we were one with New York, pulling it after us through every portal. Even now I go into many flats with the sense that I have been there before or in the one above or below—was it the night I tried to disrobe in the Scandals, or the night when (as I read with astonishment in the paper next morning) “Fitzgerald Knocks Officer This Side of Paradise”? Successful scrapping not being among my accomplishments, I tried in vain to reconstruct the sequence of events which led up to this denouement in Webster Hall. 

ついに、僕たちは、あらゆる橋門を通って、僕たちの後ろにそれを引き寄せながら、ニュー・ヨークと一体化した。今でも、僕は、前に、そこへ行ったことがあるという感覚と共にフラトゥに入る。又、そのものの中に、上に或いは下にー夜だったろうか、僕は、スカンドゥルの中で脱がせようとしたり、或いは、(僕は、翌朝、驚いて新聞に読み入るんだが)、「フィッツジェラルドゥは、『こちら側は、パラダイス』の幹事をこきおろす?夜、僕の功績の中にないはずの成功の断片、僕は、ウエブスター・ホールで、この終局に導いた出来事の連続を虚しく再現しようとした。

And lastly from that period I remember riding in a taxi one afternoon between very tall buildings under a mauve and rosy sky; I began to bawl because I had everything I wanted and knew I would never be so happy again.It was typical of our precarious position in New York that when our child was to be born we played safe and went home to St. Paul—it seemed inappropriate to bring a baby into all that glamour and loneliness. But in a year we were back and we began doing the same things over again and not liking them so much.

そしてやっと、藤色とバラ色の空の下、非常に高いビルディングの真ん中で、或る午後、タクシに乗り込んだのを僕は覚えている。欲しかったもの全てを僕は持ち、僕は二度とこれ程幸せにはならないだろうと僕は得心したので、大声で僕は叫び出した。それは、僕たちのニュー・ヨークでのあやふやな身分の典型だった。僕たちの子供が、生まれる筈だった頃、僕たちは、危険を冒さず、セイントゥ・ポール目指して家路に着いたーあの魅惑と孤独の真っ只中へ赤ちゃんを連れて行くことはいいことではないように思えた。しかし、一年の内に、僕たちは、後戻りし、僕たちは、それがそんなに好きでもないのに、又、同じことをし始めた。

 We had run through a lot, though we had retained an almost theatrical innocence by preferring the role of the observed to that of the observer. But innocence is no end in itself and as our minds unwillingly matured we began to see New York whole and try to save some of it for the selves we would inevitably become.

僕たちは。一つの定めを走り抜けて来た、監視人の内、それに監視される者の役割を好むことで。ほとんど芝居じみた無邪気さを僕たちは、持ち続けはしたが。しかし、無知は、そのものに終わりがなく、僕たちの考えが、しぶしぶ成熟するに連れ、僕たちは、ニュー・ヨーク全体を見始め、僕たちが必ず相応しくなろうとした自分自身のために、その一部を取って置こうとする。

It was too late—or too soon. For us the city was inevitably linked up with Bacchic diversions, mild or fantastic. We could organize ourselves only on our return to Long Island and not always there. We had no incentive to meet the city half way. My first symbol was now a memory, for I knew that triumph is in oneself; my second one had grown commonplace—two of the actresses whom I had worshipped from afar in 1913 had dined in our house.

それは、遅過ぎたのかー或いは早過ぎたのか。僕たちの所為で、都市は、当然のようにバッカスの娯楽、大人しいか、空想的、と連結された。僕たちは、ロング・アイランドゥ、必ずしもそこではなかったが、への僕たちの再訪に関してだけは、僕達自身を組織できた。僕たちは、都市と交わる動機を持たなかった。僕の最初の象徴は、今は単なる思い出、何故なら、勝利は、自分自身の中にあると知ったから。僕の二番目のそれは、普通の立場になりー僕が、1913年以来ずっと熱愛した女優二人は、僕たちの家で食事をした。

 But it filled me with a certain fear that even the third symbol had grown dim—the tranquillity of Bunny's apartment was not to be found in the ever-quickening city. Bunny himself was married, and about to become a father, other friends had gone to Europe, and the bachelors had become cadets of houses larger and more social than ours. By this time we “knew everybody”—which is to say most of those whom Ralph Barton would draw as in the orchestra on an opening night.

それでも、三番目の象徴まで、曖昧(あいまい)になってゆくのは、確かな不安を伴い、僕に迫った。-バニーのアパートゥマントゥは、常態的急進都市に見受けられることはなかった。バニーその人は、結婚して、一人の父親になろうとしていたし、他の友人たちは、イウァラプに去り、独り者は、僕たちの属するものより、大規模で社会的な劇場の幹部候補生になった。この時までに、僕たちは、「全ての人を知った」ー謂わば、開演の夜、オ―ケストゥラでのように、ラルフ・バートンが描こうとするそれらの大半をである。

But we were no longer important. The flapper, upon whose activities the popularity of my first books was based, had become passe by 1923—anyhow in the East. I decided to crash Broadway with a play, but Broadway sent its scouts to Atlantic City and quashed the idea in advance, so I felt that, for the moment, the city and I had little to offer each other. I would take the Long Island atmosphere that I had familiarly breathed and materialize it beneath unfamiliar skies.

しかし、僕たちは、既に力はなかった。僕の初めての本の人気に基づいた活躍上の蝿叩きは、1923年までにー何れにせよ東部では、時代遅れになってしまった。僕は、戯曲を持って、ブロゥドゥウエイに押し掛けることにしたが、ブロゥドゥウエイは、そのスカウトゥをアトゥランチク・スィティに送り、前もって着想を破棄した。そこで僕は、さしあたり、その街と僕は、互いに提供し合うことは殆どないのだと、察した。不慣れな空の下、僕は無遠慮に呼吸をし、それを実現するというロング・アイランドゥの環境を、僕は必要とするのだ。

It was three years before we saw New York again. As the ship glided up the river, the city burst thunderously upon us in the early dusk—the white glacier by the Battery swooping down like a strand of a bridge to rise into “uptown”a miracle of foamy light suspended by the stars. A band started to play on deck, but the majesty of the city made the march trivial and tinkling. From that moment I knew that New York, however often I might leave it, was home.

それは、僕たちがニュー・ヨークで再会する三年前だった。船が川を滑るように上るにつれ、その都市は、日が暮れ始めると、僕たちの上で雷鳴のように炸裂した。ー「アップタウン(住宅地区)」泡のような明かりの奇跡の中に乗り上げるため、まるで橋の座礁のように襲い掛かる一連の白い氷河は、星によって吊るされている。デックでバンドゥが演奏し始めた。それにしても、都市の威厳は、つまらない、音を立てるだけのマーチを作った。その瞬間から、ニュー・ヨークは、どんなに繰り返し僕がそれを置き去りにしても、故郷だった。

The tempo of the city had changed sharply. The uncertainties of 1920 were drowned in a steady golden roar and many of our friends had grown wealthy. But the restlessness of New York in 1927 approached hysteria. The parties were bigger—those of Conde Nast, for example, rivalled in their way the fabled balls of the nineties; the pace was faster—the catering to dissipation set an example to Paris; the shows were broader, the buildings were higher, the morals were looser and the liquor was cheaper; but all these benefits did not really minister to much delight. 

都市のテムポゥは、急に変わった。1920年の無常は、確固とした繁栄のどよめきにかき消され、僕たちの友人の多くが、裕福になった。それにしても、1927年のニュー・ヨークの動揺は、ヒスティアリアの域に近付いた。パーティは、より大規模になった。ーコンデ・ナストゥのそれは、例えば、彼らの流儀で張り合った90の作り物の玉、そのペイスは、より速くー濫費がちのケイタリングは、パリスにお手本を示した。そのショウは、より広範囲に亘り、ビルディングは、尚高くなり、モラルは更に弛み、酒はますます安くなった。しかし、これらの利益は、実際、多くの楽しみ全てに奉仕しなかった。

Young people wore out early—they were hard and languid at twenty-one, and save for Peter Arno none of them contributed anything new; perhaps Peter Arno and his collaborators said everything there was to say about the boom days in New York that couldn't be said by a jazz band. Many people who were not natural alcoholics were lit up four days out of seven, and frayed nerves were strewn everywhere; groups were held together by a generic nervousness and the hangover became a part of the day as well allowed-for as the Spanish siesta. Most of my friends drank too much—the more they were in tune to the times the more they drank. And so effort per se had no dignity against the mere bounty of those days in New York, a depreciatory word was found for it: a successful programme became a “racket”—I was in the “literary racket”.

若い人々は、早くに外に出た。ー彼らは、21にして勤勉だが熱意がなく、ピーター・アルノを除いて、彼らの内、誰一人、新たに何らかの寄与をした者はいない。多分、ピーター・アルノとその共著者たちは、ジャズ・バンドゥによって語られようもないニュー・ヨークの急発展期について、口を開こうとしたのだ。成るべくして成ったアルカホリックではなかった多くの人々が、7から解き放たれ4日を光の下に置かれ、すり減らされた神経は、至る所に撒き散らされた。群れは、一般的な興奮によって、互いに制御され合い、二日酔いが、スペイン風の午睡同様ー斟酌(しんしゃく)され、昼間の務めになった。僕の友達の大部分が、あまりにも飲み過ぎた。ー彼らは、一致して時代に便乗すればするほど、彼らはますます飲んだ。だから,努力そのものが、ニュー・ヨークのあの当時の単なる施し物の前では、なんの価値もない。軽蔑的な言葉が、そのため見受けられた。成功したプロゥグラムは、「ラキットゥ(大混乱)」になった。ー僕は、「文学のラキットゥ(大混乱)」の只中にいた。

We settled a few hours from New York and I found that every time I came to town I was caught into a complication of events that deposited me a few days later in a somewhat exhausted state on the train for Delaware. Whole sections of the city had grown rather poisonous, but invariably I found a moment of utter peace in riding south through Central Park at dark towards where the facade of 59th Street thrusts its lights through the trees. There again was my lost city, wrapped cool in its mystery and promise. But that detachment never lasted long—as the toiler must live in the city's belly, so I was compelled to live in its disordered mind.

僕たちは、ニュー・ヨークから2、3時間に住んだものの、僕が町に出かける度毎に、僕は、いざこざの縺(もつ)れに巻き込まれるんだと僕は気付いた。僕は、数日後、デラウェアに向かう車上、少しへとへとになってしまった。都市の全区域が、かなり有害になっていた。しかし、変わることなく、 59番ストゥリートゥの正面が、木々を通り抜けた明かりを押し分ける方向に暗闇のセントゥラル・パークを通って、南を走破する時に、全くの平穏の瞬間を僕は見い出した。そこに、再び、その神秘性と約束に包まれた僕の夢中になった街はあった。しかし、その超俗は、長くは続かなかったー使役人が、都市の腹部に住まなければならないように、そう、僕は、その乱れた心に、住まざるを得なかった。

Instead there were the speakeasies—the moving from luxurious bars, which advertised in the campus publications of Yale and Princeton, to the beer gardens where the snarling face of the underworld peered through the German good nature of the entertainment, then on to strange and even more sinister localities where one was eyed by granite-faced boys and there was nothing left of joviality but only a brutishness that corrupted the new day into which one presently went out. Back in 1920 I shocked a rising young business man by suggesting a cocktail before lunch. In 1929 there was liquor in half the downtown offices, and a speakeasy in half the large buildings.

その代わり、そこには、潜(もぐ)り酒場があった。ー豪奢なバーから、それは、イエイルやプリンストンの構内出版物に広告を出していたが、暗黒街の歯を剥いて唸(うな)る顔が、余興の、人の良いドイツ人を通してじっと見つめるビアガードゥンへ、それに、人が意固地な表情の少年たちによってじろじろ見られる、奇妙で、更に邪悪でさえある場所の方への引っ越しで、そこには陽気どころか粗野なところも全く残されていなかった。人が、今留守となると、新規巻き直しの日を駄目にした。1920年に遡(さかのぼる)と、僕は、昼食の前にカクテイルを勧めて、上り坂の若いビズニス・マンをぎょっとさせた。1929年には、繁華街の会社の半分に酒が、大きなビルディングの半分に一軒のもぐり酒場があった。

One was increasingly conscious of the speakeasy and of Park Avenue. In the past decade Greenwich Village, Washington Square, Murray Hill, the chateaux of Fifth Avenue had somehow disappeared, or become unexpressive of anything. The city was bloated, gutted, stupid with cake and circuses, and a new expression “Oh yeah?” summed up all the enthusiasm evoked by the announcement of the last super-skyscrapers. My barber retired on a half million bet in the market and I was conscious that the head-waiters who bowed me, or failed to bow me, to my table were far, far wealthier than I. This was no fun—once again I had enough of New York and it was good to be safe on shipboard where the ceaseless revelry remained in the bar in transport to the fleecing rooms of France.

人は、徐々にもぐり酒場とパーク・アヴェニューに気付いた。過去十年で、グリーンウイッチ・ヴィリッジ、ワシントン・スクエア、マレイ・ヒル、五番アヴェニューのシャトウクスは、何故か姿を消したり、或いは、何かしら筆舌に尽くしがたいものになってしまった。都市は、膨れ上がり、腸(はらわた)を抜かれ、女たらしとストリップショウで知覚を失い、新しい言い回し「オゥ イエア?」は、究極的超摩天楼の広告によって引き起こされたあらゆる熱狂を要約した。僕の床屋は、市場(しじょう)で50万賭けて辞め、僕は、僕にお辞儀をしたり、又、僕にお辞儀をし損ったりするウエイタ長は、僕の卓に比べれば、遥かに遥かに僕より裕福だということを自覚した。これじゃあ、何の面白みもない。ー今度も、僕は、ニュー・ヨークについて十分知ったし、フランスの無一文にするだけの一組の部屋に向かう、我を忘れてきりのないお祭り騒ぎがバーに残った船上で、安全でさえあれば良かった。

“What news from New York?”

「ニュー・ヨークからどんなニュース?」

“Stocks go up. A baby murdered a gangster.”

「株が上がってる。女の娘(こ)がガングを殺した。」

“Nothing more?”

「もっと何かない?」

“Nothing. Radios blare in the street.”

「何もない、通りに、レィディオゥの騒々しい音も。」

I once thought that there were no second acts in American lives, but there was certainly to be a second act to New York's boom days. We were somewhere in North Africa when we heard a dull distant crash which echoed to the further-est wastes of the desert.

僕は、アメリカ暮らしにどんな二幕目もないと、嘗て思いはしたが、ニュー・ヨークの急発展期にあっては、確かに二幕目もなければならなかった。砂漠の荒れ地の更に遠くへ最も遠くへとこだました僕たちが無感覚になる程遠方の音響を耳にした時、僕たちは、北アフリカのどこかにいた。

“What was that?”

「あれは何だったの?」

“Did you hear it?”

「貴方はそれを聞きました?」

“It was nothing.”

「そんなの何でもなかったよ。」

“Do you think we ought to go home and see?”

「僕たちは、家に帰って確かめるべきだと思わない?」

“No—it was nothing.”

「いやーそんなの何でもなかった。」

In the dark autumn of two years later we saw New York again. We passed through curiously polite customs agents, and then with bowed head and hat in hand I walked reverently through the echoing tomb. Among the ruins a few childish wraiths still played to keep up the pretence that they were alive, betraying by their feverish voices and hectic cheeks the thinness of the masquerade.Cocktail parties, a last hollow survival from the days of carnival, echoed to the plaints of the wounded: “Shoot me, for the love of God, someone shoot me!”, and the groans and wails of the dying: “Did you see that United States Steel is down three more points?” My barber was back at work in his shop; again the head-waiters bowed people to their tables, if there were people to be bowed.From the ruins rose the Empire State Building, lonely and inexplicable as the Sphinx and, just as it had been a tradition of mine to climb to the Plaza Roof to take leave of the beautiful city, extending as far as eyes could reach, so now I went to the roof of the last and most magnificent of towers. 

二年後の陰鬱な秋に、僕たちは又、ニュー・ヨークを目の当たりにした。僕たちは、妙に丁寧な得意先代理店を通過し、それから、下げられた頭と手の中の帽子と共に、僕は、反響するばかりの墓を恭(うやうや)しく歩いた。廃墟の間を2、3子供じみた幽霊が、彼らは生きているんだという見栄を張り続ける外(ほか)ないかのように、今尚遊んだ。彼らの熱っぽい声と紅潮した頬によって、その虚構の薄っぺらさを暴露した。カクテイル・パーティ、謝肉祭の日々からの究極の上辺だけの生存が、負傷者の告訴状に、「僕を射ち殺してくれ。神の愛の代わりに、誰か僕を射ち殺してくれ!」臨終の呻き声と咽(むせ)び声に共鳴した。「ユナイティドゥ ステイツ スティールが、三ポイントゥ以上下がっているのを、貴方気付きましたか?」僕の床屋は、彼の店の仕事に戻った。再び、ウエイタ長は、彼らの卓の人々にお辞儀をした。もし、そこにお辞儀をされる人々がいれば。廃墟から、スフィンクスのように人気(ひとけ)のない、不可解な、まるで美しい都市に分かれを告げるために、プラザ・ルーフに登ることが、僕の一家の伝統だったかのように、目が捉(とら)えられる限り延長しているエムパイア・ステイトゥ・ビルディングを浮かび上がらせた。だから今、僕は最上の最も豪勢なタウアのてっぺんに向かった。

2021年12月2日木曜日

My Lost City32/Francis Scott Key Fitzgerald

My Lost City

Francis Scott Key Fitzgerald

There was first the ferry boat moving softly from the Jersey shore at dawn―the moment crystallized into my first symbol of New York. Five years later when I was fifteen I went into the city from school to see Ina Claire in The Quaker Girl and Gertrude Bryan in Little Boy Blue. Confused by my hopeless and melancholy love for them both, I was unable to choose between them一so they blurred into one lovely entity, the girl. She was my second symbol of New York. The ferry boat stood for triumph, the girl for romance. In time I was to achieve some of both, but there was a third symbol that I have lost somewhere, and lost for ever.I found it on a dark April afternoon after five more years. 

'Oh, Bunny,' I yelled. 'Bunny!' 

初めに、ジ+ージー海岸から、夜明けに音もなく滑り出すフェリーボウトゥがあった。一 その瞬間が、ニュ一・ヨークの僕の最初の象徴として結晶するのだ。五年後、僕が15になった時、ザ クエィカー・ガールの中のアイナ・クレアやザ・リトゥル・ボゥイ・ブルーの中のガートゥルードゥ・ブライアンに会いたくて、僕は、学校から街中(まちなか)に出かけた。彼女達のどちらも追い求める、僕の為す術のない、切なく熱い思いに当惑し、僕は、彼女達の間(はざま)にあって選ぶに選べなかった。一挙句の果て、彼女達は、その娘(むすめ)、一人の魅力的な存在の内に影を潜めた。彼女は、ニュ一・ヨークの僕の二番目の象徴だった。フェリーボウトゥは、成功の姿を、その娘(むすめ)は恋の姿をしていた。その内、僕は、両者の何れかを手に入れる筈だった。が、何処かで見失い、そして永遠に失ってしまった三番目の象微が現れた。

僕は、更に五年後、暗い四月の午後、それを知った。

「オーイ、バニ一。」僕は叫んだ。「バニ一!」

He did not hear me―my taxi lost him, picked him up again half a block down the street. There were black spots of rain on the sidewalk and I saw him walking briskly through the crowd wearing a tan raincoat over his inevitable brown get-up; I noted with a shock that he was carrying a light cane.

彼は、僕に耳を貸さなかった―僕のタクシは、彼を見失い、通りを半ブロック下って、再び彼に同行した。歩道は、雨の黒い斑点で覆われ、僕は、彼らしいお決まりの茶の服装の上に、黄褐色のレインコゥトゥを着て、人込みを颯爽と歩く彼を見た。彼がほっそりとしたステッキを持っていたので、僕は、衝撃と共に注目した。

“Bunny!” I called again, and stopped. I was still an undergraduate at Princeton while he had become a New Yorker. This was his afternoon walk, this hurry along with his stick through the gathering rain, and as I was not to meet him for an hour it seemed an intrusion to happen upon him engrossed in his private life. But the taxi kept pace with him and as I continued to watch I was impressed: he was no longer the shy little scholar of Holder Court―he walked with confidence, wrapped in his thoughts and looking straight ahead, and it was obvious that his new background was entirely sufficient to him. I knew that he had an apartment where he lived with three other men, released now from all undergraduate taboos, but there was something else that was nourishing him and I got my first impression of that new thing the Metropolitan spirit.

「バニー!」僕はもうー度呼び掛け、そして止めた。彼は、ニューヨーカーに相応しかったが、僕は、末だプリンストンの一学生だった。これは、彼の午後の散歩だ。勢いを増す雨を突き、彼のステッキを持ったこの急ぎ足、それに、僕は、彼にー時間会う予定はなかったので、自らの私生活に専心する彼に偶然出食わした事は、侵害のように思われた。それでもタクシは、歩調を合わせ、僕は、見守り続けるに連れ、自ずと感心した。彼は、もはや、ホゥルダ一・コートゥの内気な目立たない優等生ではなかった。―彼は自信を漲らせて歩いた。思索に耽り、真直ぐ前を見ながら、それに、彼の新しい背景は、彼にはすべからく十分であるのは明らかだった。彼が、他の三人の男と暮らすアパートゥを彼は持ち、今や、あらゆる大学生としての禁制から解放されていると、僕は知った。 何れにせよ、そこには、彼を育んでいる他の何かがあり、僕は、その新しい事実、都会人の気風といった第ー印象を得た。

Up to this time I had seen only the New York that offered itself for inspection - I was Dick Whittington up from the country gaping at the trained bears, or a youth of the Midi dazzled by the boulevards of Paris. I had come only to stare at the show, though the designers of the Woolworth Building and the Chariot Race Sign, the producers of musical comedies and problem plays, could ask for no more appreciative spectator, for I took the style and glitter of New York even above its own valuation. 

この時まで、僕は、見物のためにそのものを提供するニューヨークだけを見て来たー僕は訓練された熊をポカンと見ているお上りさんのディック・フィッティントンか、はたまたパリの大通りに目が眩んだミディの若者だった。僕は、ショウに見入るためだけにやって来た。尤(もっと)も、ウールワース・ビルディングのデザイナーやチャリアットゥ・レイス・サイン、ミュージカル・コメディーのプロデューサーや問題劇が、この上なく目の肥えた観客を誘えはしたが、僕は、それ自体の評価を超えたニュー・ヨークの様式や華麗さに惹かれたから。

But I had never accepted any of the practical anonymous invitations to debutante balls that turned up in an undergraduate's mail, perhaps because I felt that no actuality could live up to my conception of New York's splendour. Moreover, she to whom I fatuously referred as 'my girl'was a Middle Westerner, a fact which kept the warm centre of the world out there, so I thought of New York as essentially cynical and heartless — save for one night when she made luminous the Ritz Roof on a brief passage through.

それにしても、僕は、郵便物にそれと分かる舞踏会デビューへの老練な匿名の招待状を一度も受け取ったことがなく、おそらく、僕は、どんな現実も、ニュー・ヨークの光輝から成る僕の考えに恥じないもてなしなどおよそ出来る筈がないと思うから。その上、僕が愚かにも「マイ・ガール」と呼ぶ彼女は、米国中西部出身者で、そこ以外、世界の最も居心地の悪い所にして置くという事実、そこで僕は、本質的に冷笑的で薄情なのでー短時間の通過時、彼女がリッツの屋上を明るくした時、一夜のために貯蓄するニュー・ヨークを思った。

Lately, however, I had definitely lost her and I wanted a man's world, and this sight of Bunny made me see New York as just that. A week before, Monsignor Fay had taken me to the Lafayette where there was spread before us a brilliant flag of food, called an hors d'oeuvre, and with it we drank claret that was as brave as Bunny's confident cane -but after all it was a restaurant, and afterwards we would drive back over a bridge into the hinterland. 

最近、しかし、僕は確かに彼女が分からなくなってしまった、それに僕は、男の世界が欲しかった。バニーのこの視野は、それ相応のニュー・ヨークを僕に見せた。一週間前、モンシニョール ・フェイは、食物の光り輝く旗、オルドゥーヴルと呼んだ、を僕たちの前に広げてみせるラファイアットゥに僕を連れて行き、僕たちは、それと一緒に、バニーの自信に満ちたステッキと同じくらい恐れを知らぬクラレットゥを飲んだーが結局、それは単なるレストランに他ならず、その後(あと)僕たちは、後背地の中に橋を越えて車で引き返すのだ。

The New York of undergraduate dissipation, of Bustanoby's, Shan-ley's, Jack's, had become a horror, and though I returned to it, alas, through many an alcoholic mist, I felt each time a betrayal of a persistent idealism. My participance was prurient rather than licentious and scarcely one pleasant memory of it remains from those days; as Ernest Hemingway once remarked, the sole purpose of the cabaret is for unattached men to find complaisant women. All the rest is a wasting of time in bad air.

学生遊興の、バスタノビーの、シャン―リーの、ジャックの、ニュー・ヨークは、恐怖の様相を呈し、僕は、それに帰って行った、ああ、幾重ものアルコールの靄(もや)を押し分けて、が僕は、その度毎に、固執する理想主義の背信が身に沁みた。僕の関係者は、乱交より寧ろ好色だったし、それの好ましい記憶一つ、当時から殆ど残っていない。。アーネストゥ・ヘミングウェイが、嘗て忠告したように、キャバレイの唯一の目的は、無所属の男たちに好意的な女を見つけることにある。全て休養というものは、酷い空気の中での時間潰しだ。

But that night, in Bunny's apartment, life was mellow and safe, a finer distillation of all that I had come to love at Princeton. The gentle playing of an oboe mingled with city noises from the street outside, which penetrated into the room with difficulty through great barricades of books; only the crisp tearing open of invitations by one man was a discordant note. I had found a third symbol of New York and I began wondering about the rent of such apartments and casting about for the appropriate friends to share one with me.

しかしあの夜、バニーのアパートゥメントゥで、生きることは、芳醇で恙(つつが)なく、僕がプリンストンで愛すことになった全ての見事なまでの蒸留、戸外の通りから街の喧騒と混じり合ったオゥボゥのゆるやかな演奏、それらは、書籍のバリケィドゥを通過する困難と共に部屋の中に浸透した。只、一人の男によるバリバリと引き千切る招待状の開封が耳障りな音だった。僕は、ニュー・ヨークの三つ目の象徴に気付いた。それから、僕は、こんな賃貸アパートゥメントゥと僕と一部屋を共にするのにふさわしい友人を探し回った。

Fat chance - for the next two years I had as much control over my own destiny as a convict over the cut of his clothes. When I got back to New York in 1919 I was so entangled in life that a period of mellow monasticism in Washington Square was not to be dreamed of. The thing was to make enough money in the advertising business to rent a stuffy apartment for two in the Bronx. The girl concerned had never seen New York but she was wise enough to be rather reluctant. And in a haze of anxiety and unhappiness I passed the four most impressionable months of my life.

実のある巡り合わせーそれから二年間、彼の衣服の切断に対する有罪判決同様、しばしば僕自身の運命の支配を許した。僕が、一九一九年、ニュー・ヨークに戻った時、僕が生きるにはあまりにも混乱を来したので、ワシントン広場で、円満な修道主義のピァリアドゥは、夢想されることもなかった。問題は、ブリンクスで二人用の風通しの悪いアパートゥメントゥを借りるために広告店で十分なお金を作ることだった。当の恋人は、ニュー・ヨークを一度も訪ねなかったが、彼女は、賢明過ぎてかなり気が進まないようだった。そうして、不安と不幸の靄(もや)の中で、僕は、僕の生涯で四つの最も感傷的な月を過ごした。

New York had all the iridescence of the beginning of the world. The returning troops marched up Fifth Avenue and girls were instinctively drawn east and north towards them—we were at last admittedly the most powerful nation and there was gala in the air. As I hovered ghost-like in the Plaza Red Room of a Saturday afternoon, or went to lush and liquid garden parties in the East Sixties or tippled with Princetonians in the Biltmore Bar, I was haunted always by my other life—my drab room in the Bronx, my square foot of the subway, my fixation upon the day's letter from Alabama—would it come and what would it say?—my shabby suits, my poverty, and love. 

ニュー・ヨークは、この世の始まりにも似て、何もかも玉虫色がかっていた。帰還軍隊は、五番アヴェニュー(南北の通り)を行進して北上し、女たちは、本能的に彼らの方へと東や北に引き寄せられたー僕たちはついに許されて最も勢力の漲(みなぎ)る国家を成し、祝祭は盛り上がった。僕は、亡霊ーの如く土曜の午後のプラザのレッドゥルームの中でうろつくか。或いは、東60の酒と液体ガードゥンパーティに向かうか、或いは、ビルトゥモアバーのプリンストン関係者と一緒に飲み続けるかだったのだが、僕は、何時も僕のもう一つの生活ーブロンクスの僕のほんの僅かな部屋に取りつかれ、地下鉄の僕のくそ真面目な足取り、アラバマからのその日の手紙に向ける僕の凝視ーそれは届くのか、それは何を言おうとしているのか?ー僕のみすぼらしいスーツ、僕の窮乏、そして愛情。

While my friends were launching decently into life I had muscled my inadequate bark into midstream. The gilded youth circling around young Constance Bennett in the Club de Vingt, the classmates in the Yale-Princeton Club whooping up our first after-the-war reunion, the atmosphere of the millionaires' houses that I sometimes frequented—these things were empty for me, though I recognized them as impressive scenery and regretted that I was committed to other romance. 

僕の友人たちは、人並みに世間に出て行こうとしていたが、僕は流れの真っ只中を僕の場違いな遠吠えを押し分けて進んで来た。クラブ・ドゥ・ヴィントゥで若いコンスタンス・ベネットゥの周りを取り囲む上辺だけ立派な若者、僕たちの戦後初めての再会に歓声を上げるイエィル・プリンストンクラブの級友たち、僕が、時に付き合う百万長者の家々の雰囲気、ーそこにある何もかもが、僕には虚しく、僕は、それを印象的な景観として認め、僕がもう一つの物語に傾倒していることを悔いはしたが。

The most hilarious luncheon table or the most moony cabaret—it was all the same; from them I returned eagerly to my home on Claremont Avenue—home because there might be a letter waiting outside the door. One by one my great dreams of New York became tainted. The remembered charm of Bunny's apartment faded with the rest when I interviewed a blowsy landlady in Greenwich Village.She told me I could bring girls to the room, and the idea filled me with dismay—why should I want to bring girls to my room?—I had a girl. 

最も楽しい昼食のテイブル、或いは最も夢心地のキャバレイーそれは、皆同じ、それらから、僕は、クレアモントゥ・アヴェニューの我が家に、熱心に戻った。ーそこには、ドアの外で待つ一通の手紙があった。一つずつ僕のニュー・ヨークの大いなる夢又夢が、腐って行った。バニーのアパートゥメントゥの懐かしい魅力が、グリーンウイッチ・ヴィリッジのだらしない女主人を訪問した時、休息と共に姿を消した。 彼女は、部屋に女たちを連れて行けますよ、と僕に話し、その入れ知恵は、僕を呆れ返らせたーどうして僕が、僕の部屋に女を連れて行きたい?ー僕には女がいる。

I wandered through the town of 127th Street, resenting its vibrant life; or else I bought cheap theatre seats at Gray's drugstore and tried to lose myself for a few hours in my old passion for Broadway. I was a failure—mediocre at advertising work and unable to get started as a writer. Hating the city, I got roaring, weeping drunk on my last penny and went home…

僕は、127ストゥリートゥ(東西の通り)の街中(まちじゅう)をぶらついた。そのぞっとするような人生を憤慨しながら、又他にも、僕は、グレイのドゥラッグストーで安劇場の席を買い、僕のブロウドゥウエイへの昔の熱情に浸って、二、三時間我を忘れようとした。僕は、広告業では、落第ー二流だったし、一人前のライターとしてスタートの位置にも着けなかった。街に嫌気が差し、僕は、僕の最後のペニーをはたいて喚(わめ)きながら、涙を流しながら酔い潰れ、家に向かった・・・

…Incalculable city. What ensued was only one of a thousand success stories of those gaudy days, but it plays a part in my own movie of New York. When I returned six months later the offices of editors and publishers were open to me, impresarios begged plays, the movies panted for screen material. To my bewilderment, I was adopted, not as a Middle Westerner, not even as a detached observer, but as the archetype of what New York wanted. This statement requires some account of the metropolis in 1920.

・・・移ろいやすい街、続いた何かは、あの俗悪な日々の千の成功物語の内のほんの一つとはいえ、それは、僕自らのニュー・ヨークに於ける映画の中で、一つの役割を果たす。僕は、六か月後、編集者の事務所に戻り、出版社が、僕に寛大だった時、監督は、演技を求め、映画は、スクリーンの人材を待ち望んでいた。僕の戸惑いに、僕は、選任された。中西部出身者としてではなく、冷静な監視者としてでさえなく、ニュー・ヨークが何を求めるかの典型として。この話には、1920年の大都市についての何らかの説明が要る。

There was already the tall white city of today, already the feverish activity of the boom, but there was a general inarticulateness. As much as anyone the columnist F.P.A. guessed the pulse of the individual crowd, but shyly, as one watching from a window. Society and the native arts had not mingled—Ellen Mackay was not yet married to Irving Berlin. Many of Peter Arno's people would have been meaningless to the citizen of 1920, and save for F.P.A.'s column there was no forum for metropolitan urbanity.

既に今日の高く青褪めた街はあり、既に新興の熱っぽい活気があったが、一般的不確実性があった。誰もと同様、コラムニストゥF.P.Aは、個別的大衆の鼓動を強く感じ取りはした。しかし、窓から見物する人の様にはにかみながら。社会と生え抜きの芸術は、混じり合ってはいなかった。ーエレン・マッケイは、未だアーヴィン・バーリンの許へ嫁いではいなかった。

ピーター・アルノの人々の多くは、1920年の市民には無意味だったのだろうが、大都市の洗練された住人向けの公開討論がなかったF・P・Aのコラムを保存している。

Then, for just a moment, the “younger generation” idea became a fusion of many elements in New York life. People of fifty might pretend there was still a four hundred, or Maxwell Bodenheim might pretend there was a Bohemia worth its paint and pencils—but the blending of the bright gay, vigorous elements began then, and for the first time there appeared a society a little livelier than the solid mahogany dinner parties of Emily Price Post. If this society produced the cocktail party, it also evolved Park Avenue wit, and for the first time an educated European could envisage a trip to New York as something more amusing than a gold-trek into a formalized Australian Bush.

それから、瞬(またた)く間に、「ヤンガー・ジェナレイシャン」という認識が、ニュー・ヨーク生活の幾つもの要素の融合を成し遂げた。50の人々が、そこにはなお400あると言い張ってもかまわなかったし、又マクスウエル・ボウデン・ハイムが、そこには、ボヘミア価値、その絵具と筆ー何れにせよ輝かしい同性愛(ゲイ)の一体化があると言い張ってもよく、精力的本領は、、その時発起し、初めてそこにエミリー・プライス・ポウストゥの堅固なマハガニー晩餐会より少し活気のある社会を垣間(かいま)見せた。仮にこの社会が、力クテイル・パーティを演出したら、それも又、パーク・アヴェニュー・ウイットゥを進化させ、そして初めて、教育されたイゥァロプ人は、形式的オーストゥレイリアの藪に分け入る金―小旅行より何かもっと面白いものとして、ニュー・ヨークへの旅行を思い描けたろう。

For just a moment, before it was demonstrated that I was unable to play the role, I, who knew less of New York than any reporter of six months' standing and less of its society than any hall-room boy in a Ritz stag line, was pushed into the position not only of spokesman for the time but of the typical product of that same moment. I, or rather it was “we” now, did not know exactly what New York expected of us and found it rather confusing. Within a few months after our embarkation on the Metropolitan venture we scarcely knew any more who we were and we hadn't a notion what we were. 

瞬く間に、僕が、任務を果たせなかったと論証される前、僕、僕は、リッツ雄鹿戦闘部隊のホール―ルーム・ボウイより、その社会について、六カ月立ったままのどんなリポーターよりニュー・ヨークについて無知で、その当時のスポウクスマンだけでなく、その同じ瞬間の類型的な創作品も、務めの中に押し込まれた。僕は、と言うより寧ろ、それは今や、僕たちは、だったが、ニュー・ヨークが、僕たちに何を期待したか、を必ずしも分かってはいなかったし、寧ろそれに混乱を覚えた。僕たちの大都市冒険的事業への乗船後、数カ月以内では、僕たちが何者かを、これ以上殆ど僕たちは知らなかったし、僕たちがどれ程の者か、僕たちは、見解を持たなかった。

A dive into a civic fountain, a casual brush with the law, was enough to get us into the gossip columns, and we were quoted on a variety of subjects we knew nothing about. Actually our “contacts” included half a dozen unmarried college friends and a few new literary acquaintances—I remember a lonesome Christmas when we had not one friend in the city, nor one house we could go to. Finding no nucleus to which we could cling, we became a small nucleus ourselves and gradually we fitted our disruptive personalities into the contemporary scene of New York. Or rather New York forgot us and let us stay.

都市の源泉への飛び込み、法律相手の思いがけない小競り合いは、僕たちをゴシップ欄に陥れるのに十分だった。僕たちが何も知らなかった様々な話題に、僕たちは、引き合いに出された。現に、僕たちの「付き合い」は半ダースの未婚の学友や二、三の新しい文学仲間ー僕たちが街に友達の一人も、又、僕たちが尋ねられる家一軒も持たなかった時、一人っきりのクリスマスを僕は、覚えている。僕たちが執着できる中心が見当たらないまま、僕たちは、つまらない自己執着の状態に陥り、徐々に僕たちは、ニュー・ヨークの同時代の光景の中に、僕たちの分裂した人格をはめ込んだ。と言うより、ニュー・ヨークは、僕たちを忘れて置きながら、僕たちを留まらせる。

This is not an account of the city's changes but of the changes in this writer's feeling for the city. From the confusion of the year 1920 I remember riding on top of a taxicab along deserted Fifth Avenue on a hot Sunday night, and a luncheon in the cool Japanese gardens at the Ritz with the wistful Kay Laurel and George Jean Nathan, and writing all night again and again, and paying too much for minute apartments, and buying magnificent but broken-down cars. The first speak-easies had arrived, the toddle was passe, the Montmartre was the smart place to dance and Lillian Tashman's fair hair weaved around the floor among the enliquored college boys. 

これは、都市の変化の報告ではなく、都市に対するこの執筆者の感覚の変化である。1920年の混迷から、僕は、熱狂的日曜の夜に人影のない五番アヴェニューをタクシの先端に乗ったこと、それに物悲しそうなケイ・ローレイやジョージ・ジーン・ネイサンとのリッツの落ち着いた日本庭園での昼食、それに何度も何度も徹夜して書いたこと、それにちょっとの間のアパートゥマントゥのために随分たくさん支払ったこと、それに素晴らしいのにポンコツの車を買ったことを覚えている。最初の話の気楽さには、到達し、よちよち歩きは時代遅れで、モンマルトルは、ダンスをするには気の利いた場所で、リリアン・タッシュマンの金髪は、フロアを囲む大学生たちの間を縫うように進んだ。

The plays were “Declassee” and “Sacred and Profane Love”, and at the Midnight Frolic you danced elbow to elbow with Marion Davies and perhaps picked out the vivacious Mary Hay in the pony chorus. We thought we were apart from all that; perhaps everyone thinks they are apart from their milieu. We felt like small children in a great bright unexplored barn. Summoned out to Griffith's studio on Long Island, we trembled in the presence of the familiar face of the “Birth of a Nation”; later I realized that behind much of the entertainment that the city poured forth into the nation there were only a lot of rather lost and lonely people. 

その芝居は、「デクラスィ―(退役)」「神聖で世俗的愛」又、真夜中の遊戯では、あなたは、マリアン・デイヴィ―ズとすぐ隣で踊ったり、多分、ポウニー・コーラスで快活なメアリ・ヘイをピックアップしたりする。僕たちは、僕たちがその全てから離れていると思った。多分、それらは、それらの中心から離れていると誰もが思う。僕たちは、やけに明るい未探検の納屋の中の幼い子供のように感じた。ロング・アイランドゥの上のグリッフィスの放送室に招集され、僕たちは、「国家の生誕」という家族的表情に直面して身震いした。後日、僕は、多くのエンターテインマントゥに隠れてということ、都市は、国家の中に前方を注ぎ込む。只。そこには、たくさんの、いや、そうではなく、道に迷い、孤立した人々がいるだけだと悟った。

The world of the picture actors was like our own in that it was in New York and not of it. It had little sense of itself and no centre: when I first met Dorothy Gish I had the feeling that we were both standing on the North Pole and it was snowing. Since then they have found a home but it was not destined to be New York.

映画俳優の世界、それはニュー・ヨークにいながら、それ(ニュー・ヨーク)製ではない僕たちのものに似ていた。それは、それ自身の能力はほとんど持たず、中核がない。僕が、最初にドロスィ・ギッシュに会った時、僕たちは揃って北極に立っているという感触を抱き、雪が降っていた。それ以来、彼らは、一軒の家を探し出したところで、それがニュー・ヨークだと運命づけられてはいなかった。

When bored we took our city with a Huysmans-like perversity. An afternoon alone in our “apartment” eating olive sandwiches and drinking a quart of Bushmill's whisky presented by Zoe Atkins, then out into the freshly bewitched city, through strange doors into strange apartments with intermittent swings along in taxis through the soft nights.

うんざりすると、僕たちは、ユイスマンスーつむじ曲がりのような、を僕たちの街に連れて来た。オリーヴ・サンドゥウイッティを食べながら、ゾウ・アトゥキンスに贈られたブッシュミルのウィスキ、一クオートゥを飲みながら、僕たちのアパートゥマントゥで1人きりの午後、その時、生き生きと魔法をかけられた街の中を通り抜け、見慣れないアパートゥマントゥの中の見慣れないドアを通して、静かな夜じゅう、タクシの中を伝って断続的にスイングする。

At last we were one with New York, pulling it after us through every portal. Even now I go into many flats with the sense that I have been there before or in the one above or below—was it the night I tried to disrobe in the Scandals, or the night when (as I read with astonishment in the paper next morning) “Fitzgerald Knocks Officer This Side of Paradise”? Successful scrapping not being among my accomplishments, I tried in vain to reconstruct the sequence of events which led up to this denouement in Webster Hall. 

ついに、僕たちは、あらゆる橋門を通って、僕たちの後ろにそれを引き寄せながら、ニュー・ヨークと一体化した。今でも、僕は、前に、そこへ行ったことがあるという感覚と共にフラトゥに入る。又、そのものの中に、上に或いは下にー夜だったろうか、僕は、スカンドゥルの中で脱がせようとしたり、或いは、(僕は、翌朝、驚いて新聞に読み入るんだが)、「フィッツジェラルドゥは、『こちら側は、パラダイス』の幹事をこきおろす?夜、僕の功績の中にないはずの成功の断片、僕は、ウエブスター・ホールで、この終局に導いた出来事の連続を虚しく再現しようとした。

And lastly from that period I remember riding in a taxi one afternoon between very tall buildings under a mauve and rosy sky; I began to bawl because I had everything I wanted and knew I would never be so happy again.It was typical of our precarious position in New York that when our child was to be born we played safe and went home to St. Paul—it seemed inappropriate to bring a baby into all that glamour and loneliness. But in a year we were back and we began doing the same things over again and not liking them so much.

そしてやっと、藤色とバラ色の空の下、非常に高いビルディングの真ん中で、或る午後、タクシに乗り込んだのを僕は覚えている。欲しかったもの全てを僕は持ち、僕は二度とこれ程幸せにはならないだろうと僕は得心したので、大声で僕は叫び出した。それは、僕たちのニュー・ヨークでのあやふやな身分の典型だった。僕たちの子供が、生まれる筈だった頃、僕たちは、危険を冒さず、セイントゥ・ポール目指して家路に着いたーあの魅惑と孤独の真っ只中へ赤ちゃんを連れて行くことはいいことではないように思えた。しかし、一年の内に、僕たちは、後戻りし、僕たちは、それがそんなに好きでもないのに、又、同じことをし始めた。

 We had run through a lot, though we had retained an almost theatrical innocence by preferring the role of the observed to that of the observer. But innocence is no end in itself and as our minds unwillingly matured we began to see New York whole and try to save some of it for the selves we would inevitably become.

僕たちは。一つの定めを走り抜けて来た、監視人の内、それに監視される者の役割を好むことで。ほとんど芝居じみた無邪気さを僕たちは、持ち続けはしたが。しかし、無知は、そのものに終わりがなく、僕たちの考えが、しぶしぶ成熟するに連れ、僕たちは、ニュー・ヨーク全体を見始め、僕たちが必ず相応しくなろうとした自分自身のために、その一部を取って置こうとする。

It was too late—or too soon. For us the city was inevitably linked up with Bacchic diversions, mild or fantastic. We could organize ourselves only on our return to Long Island and not always there. We had no incentive to meet the city half way. My first symbol was now a memory, for I knew that triumph is in oneself; my second one had grown commonplace—two of the actresses whom I had worshipped from afar in 1913 had dined in our house.

それは、遅過ぎたのかー或いは早過ぎたのか。僕たちの所為で、都市は、当然のようにバッカスの娯楽、大人しいか、空想的、と連結された。僕たちは、ロング・アイランドゥ、必ずしもそこではなかったが、への僕たちの再訪に関してだけは、僕達自身を組織できた。僕たちは、都市と交わる動機を持たなかった。僕の最初の象徴は、今は単なる思い出、何故なら、勝利は、自分自身の中にあると知ったから。僕の二番目のそれは、普通の立場になりー僕が、1913年以来ずっと熱愛した女優二人は、僕たちの家で食事をした。

But it filled me with a certain fear that even the third symbol had grown dim—the tranquillity of Bunny's apartment was not to be found in the ever-quickening city. Bunny himself was married, and about to become a father, other friends had gone to Europe, and the bachelors had become cadets of houses larger and more social than ours. By this time we “knew everybody”—which is to say most of those whom Ralph Barton would draw as in the orchestra on an opening night.

それでも、三番目の象徴まで、曖昧(あいまい)になってゆくのは、確かな不安を伴い、僕に迫った。-バニーのアパートゥマントゥは、常態的急進都市に見受けられることはなかった。バニーその人は、結婚して、一人の父親になろうとしていたし、他の友人たちは、イウァラプに去り、独り者は、僕たちの属するものより、大規模で社会的な劇場の幹部候補生になった。この時までに、僕たちは、「全ての人を知った」ー謂わば、開演の夜、オ―ケストゥラでのように、ラルフ・バートンが描こうとするそれらの大半をである。

But we were no longer important. The flapper, upon whose activities the popularity of my first books was based, had become passe by 1923—anyhow in the East. I decided to crash Broadway with a play, but Broadway sent its scouts to Atlantic City and quashed the idea in advance, so I felt that, for the moment, the city and I had little to offer each other. I would take the Long Island atmosphere that I had familiarly breathed and materialize it beneath unfamiliar skies.

しかし、僕たちは、既に力はなかった。僕の初めての本の人気に基づいた活躍上の蝿叩きは、1923年までにー何れにせよ東部では、時代遅れになってしまった。僕は、戯曲を持って、ブロゥドゥウエイに押し掛けることにしたが、ブロゥドゥウエイは、そのスカウトゥをアトゥランチク・スィティに送り、前もって着想を破棄した。そこで僕は、さしあたり、その街と僕は、互いに提供し合うことは殆どないのだと、察した。不慣れな空の下、僕は無遠慮に呼吸をし、それを実現するというロング・アイランドゥの環境を、僕は必要とするのだ。

It was three years before we saw New York again. As the ship glided up the river, the city burst thunderously upon us in the early dusk—the white glacier by the Battery swooping down like a strand of a bridge to rise into “uptown”a miracle of foamy light suspended by the stars. A band started to play on deck, but the majesty of the city made the march trivial and tinkling. From that moment I knew that New York, however often I might leave it, was home.

それは、僕たちがニュー・ヨークで再会する三年前だった。船が川を滑るように上るにつれ、その都市は、日が暮れ始めると、僕たちの上で雷鳴のように炸裂した。ー「アップタウン(住宅地区)」泡のような明かりの奇跡の中に乗り上げるため、まるで橋の座礁のように襲い掛かる一連の白い氷河は、星によって吊るされている。デックでバンドゥが演奏し始めた。それにしても、都市の威厳は、つまらない、音を立てるだけのマーチを作った。その瞬間から、ニュー・ヨークは、どんなに繰り返し僕がそれを置き去りにしても、故郷だった。

The tempo of the city had changed sharply. The uncertainties of 1920 were drowned in a steady golden roar and many of our friends had grown wealthy. But the restlessness of New York in 1927 approached hysteria. The parties were bigger—those of Conde Nast, for example, rivalled in their way the fabled balls of the nineties; the pace was faster—the catering to dissipation set an example to Paris; the shows were broader, the buildings were higher, the morals were looser and the liquor was cheaper; but all these benefits did not really minister to much delight. 

都市のテムポゥは、急に変わった。1920年の無常は、確固とした繁栄のどよめきにかき消され、僕たちの友人の多くが、裕福になった。それにしても、1927年のニュー・ヨークの動揺は、ヒスティアリアの域に近付いた。パーティは、より大規模になった。ーコンデ・ナストゥのそれは、例えば、彼らの流儀で張り合った90の作り物の玉、そのペイスは、より速くー濫費がちのケイタリングは、パリスにお手本を示した。そのショウは、より広範囲に亘り、ビルディングは、尚高くなり、モラルは更に弛み、酒はますます安くなった。しかし、これらの利益は、実際、多くの楽しみ全てに奉仕しなかった。

Young people wore out early—they were hard and languid at twenty-one, and save for Peter Arno none of them contributed anything new; perhaps Peter Arno and his collaborators said everything there was to say about the boom days in New York that couldn't be said by a jazz band. Many people who were not natural alcoholics were lit up four days out of seven, and frayed nerves were strewn everywhere; groups were held together by a generic nervousness and the hangover became a part of the day as well allowed-for as the Spanish siesta. Most of my friends drank too much—the more they were in tune to the times the more they drank. And so effort per se had no dignity against the mere bounty of those days in New York, a depreciatory word was found for it: a successful programme became a “racket”—I was in the “literary racket”.

若い人々は、早くに外に出た。ー彼らは、21にして勤勉だが熱意がなく、ピーター・アルノを除いて、彼らの内、誰一人、新たに何らかの寄与をした者はいない。多分、ピーター・アルノとその共著者たちは、ジャズ・バンドゥによって語られようもないニュー・ヨークの急発展期について、口を開こうとしたのだ。成るべくして成ったアルカホリックではなかった多くの人々が、7から解き放たれ4日を光の下に置かれ、すり減らされた神経は、至る所に撒き散らされた。群れは、一般的な興奮によって、互いに制御され合い、二日酔いが、スペイン風の午睡同様ー斟酌(しんしゃく)され、昼間の務めになった。僕の友達の大部分が、あまりにも飲み過ぎた。ー彼らは、一致して時代に便乗すればするほど、彼らはますます飲んだ。だから,努力そのものが、ニュー・ヨークのあの当時の単なる施し物の前では、なんの価値もない。軽蔑的な言葉が、そのため見受けられた。成功したプロゥグラムは、「ラキットゥ(大混乱)」になった。ー僕は、「文学のラキットゥ(大混乱)」の只中にいた。

We settled a few hours from New York and I found that every time I came to town I was caught into a complication of events that deposited me a few days later in a somewhat exhausted state on the train for Delaware. Whole sections of the city had grown rather poisonous, but invariably I found a moment of utter peace in riding south through Central Park at dark towards where the facade of 59th Street thrusts its lights through the trees. There again was my lost city, wrapped cool in its mystery and promise. But that detachment never lasted long—as the toiler must live in the city's belly, so I was compelled to live in its disordered mind.

僕たちは、ニュー・ヨークから2、3時間に住んだものの、僕が町に出かける度毎に、僕は、いざこざの縺(もつ)れに巻き込まれるんだと僕は気付いた。僕は、数日後、デラウェアに向かう車上、少しへとへとになってしまった。都市の全区域が、かなり有害になっていた。しかし、変わることなく、 59番ストゥリートゥの正面が、木々を通り抜けた明かりを押し分ける方向に暗闇のセントゥラル・パークを通って、南を走破する時に、全くの平穏の瞬間を僕は見い出した。そこに、再び、その神秘性と約束に包まれた僕の夢中になった街はあった。しかし、その超俗は、長くは続かなかったー使役人が、都市の腹部に住まなければならないように、そう、僕は、その乱れた心に、住まざるを得なかった。

Instead there were the speakeasies—the moving from luxurious bars, which advertised in the campus publications of Yale and Princeton, to the beer gardens where the snarling face of the underworld peered through the German good nature of the entertainment, then on to strange and even more sinister localities where one was eyed by granite-faced boys and there was nothing left of joviality but only a brutishness that corrupted the new day into which one presently went out. Back in 1920 I shocked a rising young business man by suggesting a cocktail before lunch. In 1929 there was liquor in half the downtown offices, and a speakeasy in half the large buildings.

その代わり、そこには、潜(もぐ)り酒場があった。ー豪奢なバーから、それは、イエイルやプリンストンの構内出版物に広告を出していたが、暗黒街の歯を剥いて唸(うな)る顔が、余興の、人の良いドイツ人を通してじっと見つめるビアガードゥンへ、それに、人が意固地な表情の少年たちによってじろじろ見られる、奇妙で、更に邪悪でさえある場所の方への引っ越しで、そこには陽気どころか粗野なところも全く残されていなかった。人が、今留守となると、新規巻き直しの日を駄目にした。1920年に遡(さかのぼる)と、僕は、昼食の前にカクテイルを勧めて、上り坂の若いビズニス・マンをぎょっとさせた。1929年には、繁華街の会社の半分に酒が、大きなビルディングの半分に一軒のもぐり酒場があった。

One was increasingly conscious of the speakeasy and of Park Avenue. In the past decade Greenwich Village, Washington Square, Murray Hill, the chateaux of Fifth Avenue had somehow disappeared, or become unexpressive of anything. The city was bloated, gutted, stupid with cake and circuses, and a new expression “Oh yeah?” summed up all the enthusiasm evoked by the announcement of the last super-skyscrapers. My barber retired on a half million bet in the market and I was conscious that the head-waiters who bowed me, or failed to bow me, to my table were far, far wealthier than I. This was no fun—once again I had enough of New York and it was good to be safe on shipboard where the ceaseless revelry remained in the bar in transport to the fleecing rooms of France.

人は、徐々にもぐり酒場とパーク・アヴェニューに気付いた。過去十年で、グリーンウイッチ・ヴィリッジ、ワシントン・スクエア、マレイ・ヒル、五番アヴェニューのシャトウクスは、何故か姿を消したり、或いは、何かしら筆舌に尽くしがたいものになってしまった。都市は、膨れ上がり、腸(はらわた)を抜かれ、女たらしとストリップショウで知覚を失い、新しい言い回し「オゥ イエア?」は、究極的超摩天楼の広告によって引き起こされたあらゆる熱狂を要約した。僕の床屋は、市場(しじょう)で50万賭けて辞め、僕は、僕にお辞儀をしたり、又、僕にお辞儀をし損ったりするウエイタ長は、僕の卓に比べれば、遥かに遥かに僕より裕福だということを自覚した。これじゃあ、何の面白みもない。ー今一度、僕は、ニュー・ヨークについて十分知ったし、フランスの無一文にするだけの一組の部屋に向かう、我を忘れてきりのないお祭り騒ぎがバーに残った船上で、安全でさえあれば良かった。

“What news from New York?”

「ニュー・ヨークからどんなニュース?」

“Stocks go up. A baby murdered a gangster.”

「株が上がってる。女の娘(こ)がガングを殺した。」

“Nothing more?”

「もっと何かない?」

“Nothing. Radios blare in the street.”

「何もない、通りに、レィディオゥの騒々しい音も。」