Ⅱ
フォンはダンスホールの縁のテイブルを僕達に取って置き、オーキストラが5年前にパリスで流行っていたある曲を演奏していた。二組のヴィェトゥナム人のカプルが踊っていた、小さい、きちんとした、よそよそしい、僕達と調和出来なかった文化雰囲気で。(僕は一人に覚えがある、インド‐チャイナ銀行出身の会計士と彼の妻。)彼らはこれまで、誰もが思った、無頓着に装い、悪い言葉を遣い、だらしない情熱の食い物にされた事はなかったと。もし戦争が中世風に見えたら、彼らはこれから18世紀のようだった。彼の暇な時オーガスタンを書く事をファム‐ヴァン‐トゥに誰もが期待したが、僕は彼がワーズワースの生徒で自然の詩を書くとたまたま知った。彼がダラトゥで過ごした彼の休日、彼はイギリスの湖の雰囲気になれる最もそれらしい所。彼は一回りして来た時、少しだけ頭を下げた。どのようにグランガが50ヤーズの道を上手くやって来たのか僕は不思議だった。
パイルは下手なフランス語で彼女を待たせた事を詫びていた。「これは失礼しました、」彼は言った。
「貴方は何処にいたの?」彼女が尋ねた。
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