2024年3月31日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

フトゥボールのカプタン(キャプテン)は創立者のコートゥで噴水の中に3人の調印者を投げつけるぞと彼は誓った。しかし何故か彼はそうしなかった。実は秋季の学期に入って早々これが身に降りかかったからだった、そして二人の他のトップのイレヴンの色だけがその前年からそのままにして置かれた、新しい色はフトゥボールシーズンが進むに連れ、徐々に許された。その他の乱暴者は単に胎児ブラズに過ぎなかった。そこで事はこれらの6学年のインテリと3人のイレヴンのトップの色の間で解決されなければならなかった。ところがイレヴンのトップらは、マンスフィールドゥは学内のヘヴィー級のバクシングチャムピアンで、ウオラはミドゥル級バクシングチャムピアン、そしてテイラは同様に見なされるようなタフな奴だと不快に思っていた。彼らが一体どうしたらよいかと思案している内に、マンスフィールドゥは敵国へと戦争に赴くことが決まった。
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2024年3月30日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

ブラズは歓声ややじによってその会合を妨害し、テイブルの上の雑誌フォウルダを叩きつけた。マンスフィールドゥは、クラブの会長として、彼等を修道会に呼び出し、彼らが妨害を続けた時は討論を終わりにした。
 ブラズはその出来事は終わったと思っていた、しかし彼らは勘違いをした討論クラブでのひどい行いに対して抗議する一通の手紙が2、3日後カーシュウジアンに掲載された。「確信的イレヴンベイビーズ」サインされたイニシャル3組はあのマンスフィールドゥ、ウオラ、それにテイラだった。学校はこの自殺的に大胆不敵な行動に驚き、吸収されるようにコラー、デイサンそしてアビラムを待った。
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2024年3月29日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

或る土曜討論の夜、何時もの礼儀正しい定例協議会は「ブラズ(血気ら)」ークリキトゥやフトゥボールイレヴンのメムバら、の騒々しい参加によって中断された。ブラズ(血気ら)はカルトゥジオ修道会の有力なカーストゥだった;フトゥボールイレヴン11番目の男、彼は4学年を背負ったメムバだったのかも知れないが、は6学年の中では最も優秀な給費生よりはるかにずっと信望を享受していた。「学内の首席」でさえ空々しいタイトゥルだった。それにしても6学年はインテリで、ブラズ(血気ら)は決して争わなかった。ブラズ(血気ら)はぶつかり、衝突によって得るものはなかった;インテリらは一人残されても幸せだった。だからこのブラズの侵入は、カジュアルら(思いがけなさ)に対して「アウエイ」試合に勝つことでまさに報いた、そして浴びるほどのビア、非常に多くの頭痛の種を討論クラブに引き起こした。
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2024年3月28日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はバクシングを真剣に猛烈に始めた。レイマンドゥは言った:「これらのクリケタやフトゥボウラ達は皆バクサを恐れる、ほとんど迷信のように彼らは自分のきれいな顔を失うのを恐れて自分はバクシングをしないー一年生のハウス間の試合はそんな流血の出来事だ。マンスフィールドゥを君は覚えているか、ウオラとテイラショウ?あれはきっちりやって行くには有効な伝説だ。」     。」
 もちろん、僕は覚えていた。2学期は前もって、そこでは校内討論クラブの有名な会合があった、6学年の男子から成るそれらの委員会。その討論はかなり退屈だった、カルトゥジオ修道会で何が知的な生活として通用するかは、討論クラブによって示され、カルトゥジオ修道会によって、何時もこの委員会の二人のメムバー何者にも教師の制約を受けない公共機関によって編集された。
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2024年3月27日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は言った:「君はフトゥボールをすることを許されなかった;君は何故バクシング(ボクシング)をしないの?それで気が楽になるじゃないか。」僕はそうするよと、笑って僕は約束した。するとレイマンドゥは尋ねた:「君の頭文字のことで皆は君をからかうんだと僕は思うんだが?」「そう、彼らは薄汚いジャーマン(ドイツ人)と僕を呼ぶんだ。」「僕にも悩みがある、」彼は僕に打ち明けた、「僕がバクシングをしっかり習得する前。」レイマンドゥの母親はスカティシュ(スコットランド人)だった;彼の父親はオーストゥリアン・ポウル(オーオーストリア系ポーランド人で、ブルークランズ・レイシング・トゥラックの創立者。
 極めて少数の男子がバクシングをした、そしてバクシングルーム、学校の向かいの菓子屋、レイマンドゥに会うのに最適の場所を得た、それに反して、僕は彼に会おうとしなかった。詩歌クラブの会合以外では。
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2024年3月26日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

寮、或いは年齢(関連はあるが、或いは隣、故郷の隣人)勉学とかクリケトゥやフトゥボールのように組織立った競技での形式的な知人を越えた、譬え彼らがテニスとかスクワシュ(スカッシュ)の親善試合を一緒にしても、彼らは決してその終わりを聞こうともしない。
 そこで二人の比較的若いメムバの一人、僕とレイマンドゥ・ロウダカムスキとの間で始まった友情は、非常に月並みだった。クラブの会合からの或る夕方の帰りに、僕は寮での暮らしについてレイマンドゥに打ち明けた。1、2週前僕の勉強部屋に急襲され、僕のかなり個人的な詩が奪い取られて「ライティング・スクール」ー下層スクールのメムバのための居間の掲示板にピンで留められた。そしてその結果詩を救えなかった。レイマンドゥ、僕が人間を語ることのできた一番のCarthusian、憤慨して僕の腕を彼の腕の中に抱え込んだ。「彼らは残酷な野蛮人だ!」彼は僕に僕が自分自身を結集して、何か肯定的なことをしていかなければならない、理由は僕が素晴らしい詩人で、素晴らしい人間だから。僕はだから彼を愛した。
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2024年3月25日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves成田悦子訳

 今この時、僕に備わった装置のままであろうとして、僕は詩を書き始めた;そのハウスは僕の髪に乗せた形だけの麦藁より狂気のより強固な証拠と考えた。詩という強みの上に立って僕は校内雑誌に送った、The Carthusian、校内詩歌クラブー最も優れた7人のメムバに入るよう誘われた。その会合、詩の朗読と討論、はガイケンドールの寮で一月に一度開催された、当時学校の学年担任、今やハムステドゥの大学付属か理事スクールの校長。そのメムバは、4人は6学年、そして2人の男子は僕より1年半年上だった。僕自身と同じハウスの者は一人もいなかった。カルトゥジオ修道会で、違うハウスとか年齢の男子間ではどんな友情も成立しない。
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2024年3月24日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はThe Book of Kingsからその考えを得た、「デイヴィドゥは監獄の壁に殴り書きした」。
 これは裏切り行為で僕の両親を告発すべきではない。彼らの名誉は非難の向こう側にある。次の学期、僕は特別列車でカルトゥジオ修道会に向かったが、切符を買おうにも随分遅くなってウオータルーに到着した。僕は列車が出発する前にちょっとカムパートゥマントゥ(仕切り)にどうにか入った。その鉄道会社は十分な客車を備えていなかったので、僕は、途中ずっと待つしかなかった。ゴウダルミング駅でタクシを確保するために駅構内に改札口を通過する僕を払い除けて大急ぎで駆け出す男子の群れ、だから僕は実に乗り心地の悪い空席を手に入れた。僕は家への次の手紙でこれに触れた、ちょうど何か言わなければならないから、そして僕の父は僕を咎めるために書いた。彼は自らウオータルー駅に特別訪問し、ゴウダルミング行きの切符を買い、それを引き裂いた・・・僕の母はさらにもっと良心的であることができた。ウインブルダンに僕達と一緒に彼らのハニムーン中の若いカプルが嘗て立ち寄った、そしてサンドゥウイチの包みを後に残した、二人は既に半分食べていた。僕の母はそれらを送り届けた。
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2024年3月23日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

幸運なことにハウス内の性的不品行については僅かな報告も控えて来た、だから校長がしたのは、祈りの後、普通に苛めることの帽子をその夜スピーチしただけだった。彼はちょうど或る男子の親から苦情を受け取ったばかりだと僕達に打ち明けた;どれほど彼が密告者やハウスの出来事の外部干渉好ましく思わないか、同時にそれを明からさまにしながら。僕の名前は話題に上らなかったが、休日でもない日の僕の両親の訪問は論評を興奮させた。僕は止むを得ずこのままここに居続け、密告者として扱われざるを得なかった。今、上級の学校に在籍しているから、僕は僕自らの勉学に勤しんでいる。ところが勉学は仕舞い込めず、僕のものは何時も残骸に向かうばかりだった。ぼくはもう普通のハウスを部屋が変わっても使うことさえできなかった。不使用のシャウア‐バスに僕の運動着を移転した。あの時僕の心は狂った、そして校医は、これ以上フトゥボールをする必要はないと決定を下した。僕の最後の頼みの綱、精神錯乱に見せかけることに思いがけずかなり成功した。まもなく誰も、僕と僅かな接触も避けること以外、困らせなくなった。 
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2024年3月22日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅶ

二年目の途中、僕は僕の母親に彼らが僕を連れ去るしかないと打ち明けるために書いた。理由はもうカルトゥジオ修道会の暮らしに耐えられなくなった:ハウスは僕がいられなくなり、必要とされもしないということ、それを分かり易くした、僕は彼らに詳しく内緒で伝えた、僕の要求を真剣に彼らに受け入れて貰えるように;ところが彼らはこの秘密を尊重しようとしなかった。彼らの宗教上の義務、僕が彼らに書いた全てについて校長に通知すべきだろうと信じている。彼等でさえ彼らがどうすればいいのか僕を疲れさせてはいなかったのか;しかし僕を訪ねることや祈りや信仰を説くことで彼ら自身満足した。僕は全てを耐えなければならない、と彼らは言った、の目的のために・・・僕は正確には何かを忘れてしまったーおそらく僕の経歴。
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2024年3月21日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

 G.H.レンドール、カルトゥジオ修道会のその時の校長、校長会議で無邪気に言ったことを報告されている:「「僕の男子達は色っぽいがイラティク(エロチック)ではない。エラタシズム(エロチシズム・好色)のほとんどの事例は、実際、気が付かない;僕のカルトゥジオ教会で僕の期間5、6の大きな騒動があっただけだと僕は覚えている、それに追放は稀だった。校長らは彼らの寮内で何が進行しているかについて彼らの生活の は男子からかけ離れていることをほとんど知らない。しかし僕はレンドールの色っぽさ(それによって彼はより若い男子らと心情的恋愛に陥ることを意味した)と、また官能性、或いは思春期肉欲との相違には賛成する。しばしば起こる性的関係は年上の男子と彼の愛情の対象との間に実に稀にあったーそれはロマンティクな幻想を台無しにした―しかしほとんど何時も恋愛中ではない同年齢の男子らの間には、それでも便利なセクス、互いに手先を使った。つまりその雰囲気は伝統的な初期ヴィクトリア時代の形式、皮肉な言葉と淫らさによって複雑にした。
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2024年3月20日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 寮のマニタ(モニタ)は秩序を守り、寮の倫理を保護することになっているが、どんな下級生間の苛めの場合でも決して干渉しなかった。僕は暴力的な抵抗を試みたものの、公算としては何時も僕に対して深刻、この悪ふざけを単に促されただけだった。完全な無抵抗の抵抗はおそらくもっと賢明だったろうが。僕はカルトゥジオ修道会でのただ僕の最後の2年の間だけは卑猥な話にも慣れはした、それに僕が頑なになって侮辱に同様な手段で答えることができるようになる前、ある期間兵士になったりした。
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2024年3月19日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

他方ではそのハウスのフレンチ(フランス人)の男子が大変な人気を博した、協議ではみすぼらしかったが、国王エドゥワド7世は親善協商努力を徹底的に行った。僕のハウスのかなりの反ユダヤ教感情がその立場を悪化させた:誰かが僕は単なるジャーマンではないどころか、ジャーマンユダヤ教徒だという伝説を始めた。
 もちろん、僕は何時もアイリシュ(アイルランド人)だと主張したが、僕自身よりそのハウスに約一年か半年長くいたアイリシュの男子はこの主張に腹を立てた。彼はわざと僕を傷付けようとした、悪意のある乱暴な行動、僕の教科書にインクを投げたり、僕の運動着を隠したり、背後の隅から突然僕を攻撃したり、夜、僕のベドゥに水をこぼしたりすることのような、によってだけでなく、僕の上品ぶった様子に彼の卑猥なヒューマ(ユーモア)を繰り返し強いることによって、また僕の嫌悪感を笑うために皆を招待することによって。彼はまた僕の偽善や隠された堕落のヒューマラス(ユーモラス)な伝説を築き上げた。僕はほとんど神経衰弱になっていた。学校の倫理は僕のことを僕の寮監に僕が知らせようとするのを妨げた。
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2024年3月18日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕は単なる性行為について何も知らなかった、学校の会話の中にところかまわず言及される性行為の数多くの事細かな点を放って置いた、僕はそれに対して嫌悪感を持つに至った。僕は走って逃げたかった。
 全ての中で不運な無力さは、僕の名前が「R.フオンR.グレイヴズ」として学校のリストゥに出現したからだった。僕は僕のセカンドゥ・ネイムが「ランカ」になることをこれまで信じて来た;「フオン」、僕の出生証明書で発見し、僕を狼狽させた。カルトゥジオ会修道士らは彼らのセカンドゥ・ネイムについて秘密裏に行動した;そして普段は装飾的なものを隠すために管理した。単音節語やイングリシュとして「ランカ」で通しても何の疑いも持ちようがなかった、しかし「フオン・ランカ」は眩しく輝いていた。ビズナスマン(ビジネスマン)の子息らは、この頃、ライク(ドイツ)との貿易戦争、その脅威、その必要性を熱く議論したものだ。「ジャーマン(ドイツ人)」は「卑劣なドイツ人」を意味した。それは意味した:僕達の立派な産業に肩を並べつつある「安い粗悪な商品を」。それはまた軍隊の脅威、プラシュアニズム(Prussianism)、使えない哲学、飽き飽きする学問、音楽‐愛好、そしてセイバ(サーベル軍刀)鳴らしを意味した。僕のハウスのジャーマン・ネイムを持った他の男子は、但し出生や養育によってイングリシュは、僕がそうされたのと同様の扱いを存分に頂戴した。
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2024年3月17日日曜日

Good.-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  僕の二学期にその悩みが始まった。多くのことが当然僕の不人気の後を押した。その上給費生であり、試合で目立って活躍しないなど、僕は何時も小遣い銭が足りなかった。僕は学校の売店で仕舞い込むために僕の同期生扱う社会的習慣に従えなかった、僕は彼らの取り扱いを受け入れられなかった。僕の衣服は、学校の模範に外見上合致しながらも、既製品で、他の男子ら全てが着ていた最高のー品質の布地ではなかった。たとえそうだとしても、僕は彼らの中で最高の物を何故作るのかを教えられたことがなかった。僕の母も僕の父もどちらも服装の細部にどんな敬意も払わなかった、そして僕の長兄はこの時までに海外にいた。僕のハウスの他の男子のほとんど皆、5人の給費生以外、ビズナス(ビジネス)マンの子息だった:彼らの関心や偏見の階級を僕は何も心得ていなかった、専門職の階級の男子なら今まで会ったことはあるが。また、僕は彼らの好意を求めて随分多くを語った。その上無能なことに、僕がそうするように僕の母が計画した通りの取り澄ました純粋さのままでいたからだ。
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2024年3月16日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 カルトゥジオ修道会での僕の最初の瞬間から僕はその溢れんばかりの強烈さに思い出すことを躊躇う魂の抑圧を被った。じゃがいもに囲まれたあの冷え冷えとしたラフツアンの地下貯蔵室にいるような何か、何れにせよ余計者にして別の袋からこぼれ出た一つのじゃがいも。その学校はおよそ600人の男子から成った、彼らの主な関心は試合やロマンティクな交友関係だった。誰もが学業を軽蔑した;給費生らはウィンチェスタかイートゥンのように単身寮建物に集められなかった、しかし10人で分かち合い、プロウ(プロ)の者として知られた。試合で活躍し、給費生ではない者達より彼らは更にずっと学業を嫌っているように見せかけることができた、そして譬え何時彼らの勉強でこうし者達を手伝うよう求められても準備ができていて、彼らは何時も不面目な機会を持った。僕はたまたま勉強好きだった給費生ではあった、教室の無気力状態は僕を驚かせ、落胆させた。僕の最初の学期、僕はほとんど一人で残された、新入生は、励まされも誘われもしないという決まりその存在。その他の男子はめったに僕に話しかけなかった、使い走りに僕を送り出す以外、或いは学校の慣習の違反を冷ややかに指摘するため以外。
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2024年3月15日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

そして更なる20年の時間の中で僕達はこの会話を忘れるだろう、僕達が間違っていたということを、そしておそらく誰もが、2、3の犯罪的な例外を持ちながら、まずまず平均してきちんとしていた、そして言う:『僕はあの時未熟な愚か者だった、不可能な完全を言い張るばかりで、』やがて僕達は僕達の息子たちを感傷のためにカルトゥジオ修道会に送るだろう、そうして彼らは僕達がやったことなら何もかもやってのけるだろう。」
 これは僕の旧式の学校への攻撃と解釈されてはいけない;それは単にその時の僕の気分の記録に過ぎない。疑いなく、僕は、公立学校が備えていると宣伝されている厳しい経験と人格訓練についてまるで評価していなかった。そして典型的なカルトゥジオ会の修道士は最近僕に意見を言った:「学校の道徳的な傾向はあの当時からすると跡形もないほど改善しました。」しかしそうとは言えそれは必ず身に着くだろう。
 実を言うと、僕は5年後までアクスファドゥに進まなかった、1919年に僕の弟チャールズ、僕自身より4歳若い、は既に大学構内に住んでいた;それで1926年まで
僕の学位を奪わなかった、その時までに僕の弟ジャンは僕に追いついてしまった、僕自身より8歳も若かったのに。
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2024年3月14日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 「正しい」僕は彼に伝えた。
 「僕の神よ、」彼は言った、突然僕の方を向いて、「僕はその将来性には耐えられない。何か僕とアクスファドの間に差し入れればいいんだ;僕は少なくとも全休暇中に洋行するぞ。」
 3ヶ月はさほど長くはなかった、僕が思うほどには。僕は海へと走り去ろうという漠然とした考えを持った。
 「君は受け入れるのか、」ネヴルは僕に尋ねた、「僕達は主としてラトゥン(ラテン語)やグリーク(ギリシャ語)に僕達の生涯の内の14年を費やしたところだ。完全に教えられもしないのに、同じことの更なる3年を僕達は、今、スタートゥしようとしているということか?」
 未だに僕達がカルトゥジオ修道会の僕達の最も悪いところを口にすると、僕には彼を思い出させた、或いは彼には僕を、僕はどちらか忘れた:「もちろん、厄介なのは僅かな与えられた時間で40か50人の内、誰でも必ず二人の実にきちんとした校長を、5、600人の内10人の実にきちんとした大学評議員を見つけるということである。 
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2024年3月13日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

最後に、場所を去るに当たって僕達の唯一の後悔は最終学年時に僕達はシクスス・フォーム(6年制の形態)のメムバとして僕達が満足することができるような状況では状況では二人共ほとんどなかったことだ。今僕達は二人共聖ジャン(ヨハネ)ズ大学、アクスファドゥ(オクスフォードゥ)に通っていた、そこは単にカルトゥジオ修道会の馬鹿騒ぎの繰り返しであること請け合いだ。僕達はそこでは新入生である、しかし当然心温かく公立学校的であることを拒絶しようとする、そしてだから僕達の部屋に侵入したばかりに僕達の機嫌を損ねたり、誰かを傷つけたり、僕達自身を傷つけられたりするように強制されることの愚かさに直面する。そこにはおそらく僕達が僕達の三年目に達するまでどんな平和もないだろう、僕達が今と同じような立場に舞い戻る時、また僕達の予備学校でのあの最終学年と同じような立場に再び戻りつつも。「1917年に」、ネヴルは言った、「公的印証は全てのこの陰鬱さの上に押されるだろう。僕達は僕達の学位を得る、そしてそれから何かひどく嫌な職業で再び新人の男子としてスタートゥしなければならない。」
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2024年3月12日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅵ

戦争の勃発の一週間前、僕が去ったその日を思い出すことによってカルトゥジオ修道会スクールについての僕の報告を僕に始めさせてください。僕はその時その学校の上席ネヴル・バーヴァと僕の気持ちを話し合った、最初に僕達はそこには多分更にずっと代表的な公立学校があったが、僕達はそう思い込まない方を選んだということに同意した。次に、どんな可能な解決策も見つけられるはずがないということ、理由はそれを壊すには伝統があまりにも根強く、誰かが学校と職員全てを解任し、全てもう一度で直さなければならないだろうから。しかしこれが十分でなかろうと校舎は公立学校精神として何が合格したのかを印象付けられつつも僕達は根本的な弊害として何かを感じた、それらは破壊されるしかないだろう、やがて学校はどこかに違う名前で再建した。
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2024年3月11日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 しかしこんなことは山登りでは珍しくない。僕の友人ジョージ・マラリは、実例を挙げると、エヴァリストゥ(エヴェレスト)山の頂上に接近した後姿を消した、嘗てスノウドンで不可解な登山をしたことがある。彼は岩棚の上にパイプを置き忘れた、ライウッドゥの絶壁の一つを下る途中に、それを取り戻すために早道を這って後退した、それから再び同じルートゥでよじ登った。誰一人彼が彼がどんなルートを選んだのか見ていなかった。しかし彼らが公式記録のために翌日それを調べに来た時、彼らは道筋の至る所にほとんど張り出しをを見つけた。登山家クラブの登山のルールではそれらの考案者に敬意を表して記名されれるだけではなく、ありのままの姿を記述する。例外はここで作られた。登山は次のように記録された:「マラリのパイプルートゥ2上の異形;隣の地図を見よ。この登山は総じて不可能である。それはひとたび成し遂げられた、落ちてゆく日の光の中、G,H,L,マラリ氏によって。」
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2024年3月10日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼女は高所では頭が痛くなったが、彼女は危険な場所に登ろうとする僕達を制限することはなかった;それに僕達は怪我をすることもなかった。僕自身高所のために頭が痛くなること、僕はそれを克服するために計画的に、苦しくても僕自身をなだめ導いた。僕達はハレックの城の小塔や塔に何時も登って行った。僕は我が身に関しては僕の恐怖心を無視することや分散することに必死で務めた。高度への単純な危惧は先ず克服されなければならなかった。
 僕達のハレックの屋敷の庭の採石場的顔は、一つや二つの簡単な登る所を提供した、ところが徐々にもっともっと難しい所を考案した。僕の隠されたそれぞれの新たな成功と、共に休もうとする、神経質にぴくっと動きながら、頂上で安全な草地の草の中。一度僕は僕の足場を岩棚の上で見失い、命を奪われるところだった;何れにせよそれは僕が宙に足場を間に合わせに作ったかのように思えたので、そこから安全な方へ我が身を蹴り上げた。僕は後でその場所を調べた、僕はジーザスの悪魔の誘惑を思い起こした:岩から我が身を投じる解放感、そして安全な所に戻される
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2024年3月9日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 これがアイアランドゥだった、僕達は自ら意識的にアイリシュ(アイルランドゥ語や地元の伝説を学ぶべきだった;しかし僕達はアイアランドゥに行こうともしなかった、嘗て僕が腕の中で乳児だった時以外。その代わり僕達はより純粋にウエイルズを知りたくなった、地方の伝説にしてはあまりにも古い歴史を持つ地として;そこを散歩しながら僕達は僕達自身を作り上げた。僕達は立っている石の下に誰が埋められて眠るのか、誰が壊れた丸い小屋の宿営所に住んでいたのか、谷の洞窟の中のどこでその大きなナナカマドは育ったのかを決定した。僕達のジャーマニへの訪問中、素朴な人間の様子に僕は母国という意識を呼び覚まされた、しかしハレックの上に僕は歴史とか地勢に無縁な独自の平和を見つけた。僕自身として初めて僕が書いた詩はそれらの丘に纏(まつ)わるものだった。(グレイヴズとして僕が書いた初めての詩はカタラスの風刺文の一つの翻訳だった。)
 僕達の多忙で心ここにあらずの父は僕達子供のことを心配しなかった;僕達の母は心配ばかりした。しかし彼女は朝食後直ぐに丘に消えても僕達を許した、僕達が夕食時間後、随分経って帰宅しても大した文句も言わなかった。60

2024年3月8日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕達にウエイルズ人の血は全く入っていない、僕達はウエイルズ語を学ぶことに誘惑をほとんど感じなかった、自らウエイルズ人を装うことなどさらさらなかったが、全く地勢学的ではない地域としてその地方を知っていた。僕達が会ったどの羊の飼い主も僕達の私生活に侵入するような気がした。クラリサ、ロウザリーンそして僕は一度最も遠い丘から離れたところ、一日中人っ子一人見かけなかった。ついに僕達は滝に辿り着き、その畔(ほとり)の岸に横たわる二匹の鱒を見つけた;10ヤードゥ離れた所に釣り人が立って、イバラの藪から彼の釣り糸の縺れをほどいている。彼は僕達を見なかった、そこで僕は静かに魚に忍び寄り、白いベル‐ヘザ(ヒース)の小枝(それを僕達はその午後見つけた)をそれぞれの口の中に入れた。覆いをかけて大急ぎで戻った、そして僕は尋ねた「僕達は見つかるだろうか?」しかしクラリサは言った:「いいえ、それを台無しにしないで。僕達は家に着いても二度とそのことを口にしなかった、お互い同士でも:おまけにその帰結を知らなかった・・・
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2024年3月7日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

  この地域は(そしてどんな地域もそんな風ではないと僕は承知している)形式ばった自然とは無縁であるように思った。そこでは誰もがほとんど季節の通過に気付かない;風は何時も発育を阻害された草を横切って吹いた。黒い流れは一筋に走った、冷たい清らかな、黒い石の上。山羊(やぎ)は野性的できままだ、6フトゥ(フィートゥ)の石の壁をよじ登れるように(ゆっくりと、重たげで、煤だらけの羊毛の、ウイムブルダンの向こうの牧草地で太らせたサウスダウン種の群れとは違って)それに、休んでいる時も、苔で覆われた花崗岩のおかげでどこにでも撒き散らされた巨礫と簡単に間違われる。イシバミ、ナナカマド、発育を妨げられた樫やイバラ(棘)の藪以外、数本の木は、谷で育った。冬は何時も温暖だった、昨年のワラビや昨年のヘザーが来年の春まで姿を消した様子でずっと生き残っていた。僕達はほとんどどんな鳥も見なかった、時折り遠くで旋回するコンドルやシャクシギを締め出す;そして僕達が行ったどこもその丘の岩の骨組みは芝地の下1ないし2インチだけのように見えた。
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2024年3月6日水曜日

Good-by to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕達が年を重ねるに連れ、僕達は僕達の時間をますますそこに登って過ごすようになった、そうして海岸とその関連ではますます減っていった。これらの丘陵、そこには農場や小農場が時折あった、しかし誰でも一本道を横切ることも、また農場に近寄ることもなく、15ないし20マイルを簡単に歩けた。元々僕達は漠とした済(な)し崩し的許しを手に登った。メイス‐ワイ‐ガーンドゥに近い丘の上にブルーべりを;或いはグウローイライエンではグランベリを探して;或いはカステル・トウメン‐ワイ‐ムーアによって破壊されたロウム人の別荘の中のロウマン床下暖房タイルの破片(それらの上に未だに陶工の親指‐印のある)、或いはアートゥロ上流の土手の金鳳花(きんぽうげ);或いは隣の山並みで丘の最大級ライナグ・ファアの裏に生息した野生の山羊(やぎ);或いはクムバイケン湖近くの茂みからのラズベリ;或いはロウム人の足取りの北には距離のある、名もない丘からの白いヘザ。しかししばらくすると、僕達は単にそれらの丘を訪ねて行くだけになった、訳はその辺りがあちこち歩きまわるのに適していたから。彼らのペニー‐質素な分かり易い特性は僕達をバヴァリアン(バイエルン)・アルプスの2ペンス‐色付きの品質よりずうっと喜ばせた。その頃の僕の最高の友人、僕の妹ロウザリーンは僕自身より一つ上だった。
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2024年3月5日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 春や夏ごとに、もし僕達が嘗てそうしたようにジャーマンまたはフランスをたまたま訪れなければ、僕達は北ウエイルズのハレックに出かけた。僕の母はそこに家を建てていた。自動車網が北ウエイルズに達する以前、ハレックは実に閑静な所でゴルフセンタとしてもほとんど知られていない。そこは三つの地域から成る。まず、田舎そのもの、百フィートゥ登って険しい丘陵の連なり上へ:スレイトゥ屋根と不格好な窓と破風のある御影石の家、7か8の異なる宗派の礼拝堂、比較的小さな村近く、市場の中心をそこに作るには十分な店、それに城、僕達のお気に入りの遊び場、二番目モーファ、海が引いたそこから平らな砂地、このゴルフリンクを作った地域;それにしても北に僕達が春にはチドリの卵をよく探した野性的田舎地帯を横たえる海岸はゴルフコースに最適、何マイルにも亘る硬い砂、安全な海水浴、かくれんぼ用の砂の小山。
 三番目の地域はゴルファや数人の夏の訪問者達によってさえめったに尋ねられることはなかった、村の背に当たる岩の丘陵地帯。
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2024年3月4日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

それからそこに上の方に捻れた口を持つ兄弟いました、そう!それに下の方に捻れた口を持つ妹が、そう!そして彼らはそれを順繰りにやってみました、そう!そしてそう!そして永遠のにっこり笑みで捻れたその口を持つばかな赤ちゃん、そう!最後にメイドゥ、完全な形の口を持つコウプンヘイガン(コペンハーゲン)出身のきれいな女、彼女の靴でそれを消しました、そう!パタパタパタ!」

 これらの引用は僕が、書く者として僕の母にどれだけ恩恵を受けているか、それを明確にする、彼女もまた「真実を話すこと、そして悪魔を恥じること」彼女のお気に入りの聖書の勧告は続いた:「我が息子よ、たとえ汝の手が何を探り当てても、汝の全力でそれを遂行しなさい。」
 僕は何時もウインブルダンを不適切なところだと考えた:町とか田舎とかどちらということもなく。家は僕の母の「在宅」日、水曜日にその最悪になった。僕達は僕達の日曜日に、応接間でケイクを食べるために服を着せ、下に降りた、キスをされ、礼儀正しく振舞わされる。僕の姉妹は暗唱しなければならない。クリスマス近くに、ジャーマンスタイルで祝った、一ダズンも或いはそのくらいの子供達のパーティガ巡って来る;僕達は興奮して自らの仮病を装うとする。僕はウイムブルダンのことを考えたくない。
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2024年3月3日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 三つの格言と僕の母のお気に入りの話:

 「子供達、私はお前達に命令します、お前達の母として、お前達の手で物を掻き回さないで。ハノウヴァの国王はビードゥ(ビーズ)財布を揺らしてたら彼の眼が飛び出た。」

 「子供達、私はお前達に命令します、お前達の母として、お前たちが二階にろうそくを持って行く時は気をつけるように。ろうそくは小さなカプ一杯の獣脂です。」
 
 「そこには前に男がいた、フレンチマンで、その人は悲嘆にくれた挙句死んだ、それは彼が決して母親にはなれなかったから。」

彼女はろうそくの明かりで何時もお話をしてくれた:

 「そこには昔シュレスヴィ・ホルスタインで暮らしている小作農の家族がいました、そこの人々は皆歪んだ口を持っています。或る夜彼らはろうそくを消したくなりました。お父さんの口は左に捻じれました、そう!そして彼はろうそくを消そうとしました、ところが彼は直ぐにろうそくの前にどころかどこにも立ちません。ですから彼は吹きに吹きました、それでもそのろうそくを吹き消すことはできません。そしてその後、お母さんがやってみました、ところが彼女の口は右に捻れました、そう!そこで彼女は吹いてみましたそう!すると彼女は自尊心が高過ぎて直ぐにろうそくの前にどころかどこにも立ちません、そして彼女は吹きに吹きました、ところがろうそくを吹き消せなかった。
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2024年3月2日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

どんないかがわしい瓶にも彼女はとりあえずレイベル(ラベル)を貼り直そうとする:「これはアルフレドゥの古い腱膜瘤の膏薬」或いは:「ストウリクナイン(ストリキニーネ)疑問符?」猩紅熱とかとてつもない咳用に処方された特別な薬まで保存してあった、再感染の場合には、精力的なレイベル(ラベル)貼り、彼女は僕の学校の賞品の一つに書き込んだ;「ラバトゥ・ランカ・グレイヴズはその学期の学業と二度目の試験で彼のクラスで一番の賞品としてこの本を獲得した。彼はまた神学の特別賞を、クラスの中で、最年少にもかかわらず、獲得した。彼の愛情溢れる母記、エイミイ・グレイヴズ。夏、1908。」自家製ジャムは上手に文書にされて必ずテイブルに着いたものだ。一つの小さな容器は示した:「グースベリ、レモンとルーバーブ(ダイオウ)小さな商店グースベリ補充ーネリ、煮返し。」
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2024年3月1日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

できるだけ多く戦争の話題を遠ざけた;神が戦争を許すということ、それはどのように説明すべきか、それが難しいとよくよく承知しつつ。ボーア戦争は僕の子供時代の初めを曇らせた:フィリプ、僕の兄、(彼は自分のことをフェニアンと呼んだ)、また自らをプロウ(支援)‐ボーアとも呼び、彼と父との間の朝食‐テイブルでの大変な緊張を僕は覚えている、彼の政治的な見解は決して極端ではなかった。
 ウイムブルダンの家の最終的な売却はかなり多くの問題を解決した。僕の母はどんな物でも捨てるのを嫌がった、それが最も遠い出来事における、どんな人に対するどんな奉仕であろうと可能な限りかまわなかったんだもの、25年後、がらくたは高く積み上がった。薬の棚はおそらく家の中の最もおしゃべりな場所だった。誰もそれを散らかっているとは言えなかった;びん全てに栓があった、しかしあまりにも混ざり合って置いてあるので、僕の母以外誰も、彼女には長い思い出があって、そのものを戻すところが分からなかった。数年毎に、疑いなく、彼女はそれらを端から端まで点検した。
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