2024年1月31日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕達は頑強なモラリストゥになることを学び、自己分析と優れた決断力で僕達の時間の多くを費やした。僕の姉妹ロウザリーンは彼女の子供部屋の一角に活字の貼り紙を貼り出したーそれはまさに僕によって僕によって貼り出されたも同然と言ってもよかった:「私は言ってはいけない『胸をどんと叩け』も『豚死』も、それは失礼だから」
 僕達は実にささやかなパキトゥ‐マニ(ポケットマネー)を与えられた1週間に1ペニ、12の年に2ペンスに昇給に伴い、叔父か他の訪問者から届いた臨時の収入はお金の一部分をバーネイドの養護施設や乞食に寄付することを奨励した、盲目の物乞いは点字で声を出して聖書を読みながら、ウィムブルダン・ヒルの舗装道路の上に何時も座っていた;彼は実は盲目ではなかったが、彼の目をひっくり返せたので、生徒達を瞼を下げる度に数分隠し続けた、それはわざとらしく煽ぎ立てられた。僕は度々彼に恵んだ。彼はお金持ちとして死んだ、そして彼の息子には大学教育を供与できた。
 僕がスウィンバーンの後会っていると記憶している初めての卓越した作家は、P.G.ウドゥハウスだった、僕の兄弟パースヴァルの友人、彼を彼は後に穏やかに「Ukredge」として風刺的に描いた。ウドゥハウスはその時二十歳になったばかりだった、ザ・クラブのスタフで、ザ・カプタン(キャプテン)誌に学校話を書いていた。彼は僕に1ペニを与え、僕はそれでマーシュメロウ(マシュマロ)手に入れるよう僕に助言した。あの時はあまりにも気後れし過ぎて、あれ以来僕は彼の仕事に関して批判的になることを自らに許さなかった。
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2024年1月30日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 極めて忙しい男になって行く僕の父、ランダンの(テムズ川)南岸方向に向かう学校の検閲者で、僕達子どもは休日の間を除いて彼について事実何も知らなかった。その時彼は非常に優しく振舞った、型通りの始まりと共に僕達にお話をした、「嘗て、或る時に」ではなく、しかし何時も「そしてそこで庭師は赤いパキトゥ(ポケット)ハンカチーフの上で彼の鼻を鳴らした・・・」彼は時折り僕達と一緒にゲイムをしたが教育の仕事で忙しくない時は、詩を書いているか、文学、或いは禁酒協会の会長をしていた。僕の母は、所帯を切り盛りすることで忙しく、また入念に僕の父の妻として彼女の社会的義務を果たし続け、彼女が心惹かれるに連れ、僕たちのことはそんなに面倒を見なくなった、日曜とか僕達が急に病気になった時以外。僕達には子守がいて、お互いに、この交遊だけで十分だと分かっていた。僕の父の僕達の教育における主要な役割は僕達の話が文法的に正しく、発音する言葉が正確で、それに俗語を使うことがないようにと強く求めることだった。彼は、宗教教育は全面的には母に任せた、彼は家族の祈りで取り仕切ったが、その奉仕者らは毎朝朝食前にそれに出席することを求められた。軽い罰は、早くベドゥに送られるか、或いは隅に立たされるようなそんなことは母の担当だった;スリッパで与えられた下士官の罰の苦痛に応対することはなく、彼女は僕の父に残して置いた。
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2024年1月29日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕の母は気前よく僕の父に嫁いだ、それは彼の5人の母のいない子供達共々最後まで彼を助けるように思える。僅かでも彼女自信を持つことは二の次だった。しかし先ず彼女は女の子を持ち、次にもう一人女の子を持った、そしてもちろん彼女達を持つこと、それは実に素晴らしかったが、少し落胆した、というのも彼女は息子は事実重要な事を成し遂げるという世代と伝統に属した;それから僕が現れた、五体満足の健康な子供。彼女は僕の誕生の時40歳だった;そして僕の父は4-9歳。4年後なおももう一人息子を持った。女を上回る男の切望さるる優勢は立証されて来た、そうして5の2倍は10になった。僕は僕の両親と僕の間二つの世代の相違は一世代の相違より橋を架けることが比較的簡単だと気付いた。子供達は彼らの祖父母とめったに口論しない、10人の家族は親らしい愛情の希薄を意味する;構成員らは区別がはっきりしなくなりがちだ:僕はたびたび呼ばれた、「フィリプ、リチャドゥ、チャールズ、」僕はロバトゥのつもりだ。
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2024年1月28日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

フォン・ランカの者は人間の公益事業のためにもっと責任のある仕事ができるように宗教的な信用としてジャーマニ(ドイツ人)の該当する階級の会員資格を重要視する。最近フォン・ランカは映画撮影所に加わった、家族はそれ自体不名誉だと思った。
 僕が僕の父の家族の側のーおそらくグレイヴズ家によりチェイン家にもっとー恩恵を受けている最も有益で、同時に、最も危険な贈り物は、僕は何時でも役人と取引きをしたり、或いは、それを妬む公共機関から特典を得ている時、紳士の振りをすることができるということだ。僕がたまたま何を着ていても;それに僕の衣服は紳士が普段着るものではないから、それにまだ僕は芸術家にも女々しい男のようにも見えない、それに僕のアクセントゥや身振りは近付き易くはない、僕は公爵領に相続人として配属されていた、彼の地位のその完璧な信用がこのような奇抜さ全てを弁明するだろう。このように僕は、矛盾によって僕の兄の誰かよりずっと紳士であるように見えることもあり得る、彼は近東(地中海の東の諸国)で領事館員として長年過ごした。彼の洋服ダンスはあまりにも明確にほとんど紳士のものである、それに彼は評判の悪い知人を持つことや彼が実際意図することをあらゆる機会に言うことといった偽の公爵の特権を彼自身に許さない。
 僕の紳士であることというこの商売について:僕は僕の紳士教育の14年間随分多額を支払ったので、今もあの時も、或る種見返りのようなものを手にする資格を与えられたと僕は思う。
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2024年1月27日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

これらの合致は、僕が発見できる限り、全く不利益な目的に適う、そして会話の脈絡を聞き逃す耳の悪い人を悩ませる同種の不正直を犠牲者に齎しがちだー彼らは後に取り残されることを嫌い、直観に頼り、それををすっかり聞き取るためにはったりをかける。この無能ぶりは寒い気候に於いて最も狙われる。僕は今では総多くを語らない、僕が飲んでいる時、或いはフランスで僕と一緒に戦った誰かに逢った時以外。グレイヴズ一家は試練同様のこのような意図ならばと良い心がけでいる。上品なラトゥン(ラテン)語を認(したため)ては、用紙を埋め、謎を解き明かし、子供達のように、パーティに招くと、そこでゲイムを思い付き、知能‐テイストゥが演じられた、僕達は勝ち損ったことはなかった)。彼らはボール・ゲイム向きのよい視力と、優雅な気品を持つ。僕はその目を受け継いだが、気品は受け継がなかった;僕の母の家族は全く気品なしだ。僕は馬上で、醜くとも安全な座席を確保する。横柄との指摘、僕の母の家族が被害に遭わないよう心の善良さへの必然的な点検、に対して非感傷的であるグレイヴズ家の冷淡さがそこにある。グレイヴズ家が、一般論を言うこと、それは正当だ、彼らが属すブリティシュ統治階級への、また憲法への忠誠は、個人主義者だからこそ。
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2024年1月26日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

バッカスが満足に話せも
歩けもしない内に、
オリムパスに彼は飛び降りた
彼の子守の腕から。
そして10年は全体の中で
落下によって消耗されたが
彼は遥か遠くへ落ちて
もっと陰惨に谷を旅しても構わなかった

僕の母を娶り絶対禁酒者になった後、彼は何かしら自らの茶目っ気を失くしてしまったと言われる。
 僕の父は決して一般読者より高位に立たないという神聖な秩序を手に入れるために家族の誘惑に抵抗した;そして彼はアイアランドゥとの地理的結合を絶った、その所為で僕は彼に手放しで感謝することができない。僕の親戚に対して非常に厳しく、僕が他人と付き合うよりもっとずっと注意深い、僕は僕の父と母に感心してしまう:自らの簡素と粘り強さを求める僕の父、そして自らの真面目さと強さを求める僕の母。二人共自らの寛大さを求める。彼らは決して僕を苛めなかった、形だけの信仰から体格や全般的な特徴に関しては僕の母側が、全体的に、僕の中ではより強い。しかしそれらの大半は風変りなグレイヴズ固有の発言や動作の多くの癖を持つ。通りを歩いて真っ直ぐ下ることは難しいと気付くこと;テイブルで数片のパンを持ってそわそわすること;中途半端に通り抜けてそれらを未決定にのままにしている時、文にうんざりさせられること;背中の後ろで独特な方法で組まれた手で歩くこと;そして不意に話題になることや最もどぎまぎさせる完全な記憶喪失の綴りのような。
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2024年1月25日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の父が僕の母を知ったのは、それはこのクラリサ‐リーアポウルドゥ親戚関係を通じてだった。僕の母は、たちどころに彼に打ち明けた、彼女は、僕の父が主として思い出すがままにものを書くことへの讃歌、「父なるオウリアン」を好もしく思いますと。彼は伝統的なジグの旋律「The Top Cork Road」に言葉を載せた、それを彼は彼の少年期から覚えていた。サー・チャールズ・スタンフォードゥは設定のための数和音(数コードゥ)を提供した。僕の父は1ギニで完成した権利を売った。大酒飲み、出版社は何千も作った。サー・チャールズ・スタンフォードゥ、彼は作曲家として著作権料を構想した。また非常に多額を集めた。最近僕の父は蓄音機の権利ということで数パウンドゥ送られた。彼はこの全てが厭(いと)わしくはない、しかし僕のどんな仕事の完成した権利も宗教上ほとんど値を下げて売ろうとしないことを嘗てよりもずっと僕に印象付けた。
 僕の父が詩人であるということは、少なくとも、詩人へのどんな誤った敬意からも僕を救って来た。彼を知り、僕を知らない人々に僕が遇(あ)う時、僕は喜びさえする。食事の後食器を洗っている間、或いはエンドウの殻を剝きながら、或いは同じ折に触れて、僕は彼の歌の幾つかを歌う。彼は一度も僕に書き方を教えようとも、或いは僕の真面目な詩の解釈をしてみせようともしなかった;彼のものについてのアドゥヴァイスを求める準備が何時もそれ以上にできていた。僕に書くのを止めるように仕向けることもまたしなかった。彼の陽気な初期の仕事は最高だ。His Invention of Wine(彼のワインのインヴェンション)、例えば、それは始まる:
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2024年1月24日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

 クーパ―一族は常に取りつかれた家系で、アイアランドゥ人は自ずとアイアランドゥ人になる。ジェイン‐クーパ、僕の父が娶り、消耗性疾患(主に肺病)で死んだ。
 グレイヴズ一族はほっそりした鼻で、拗ねる傾向があった、しかし決して堕落しなかった、冷酷かヒステリック。粘り強い文学の伝統:リチャドゥについて、二流の詩人で、シェン・ストウンの友人;そしてジョン・タマス、数学家でサー・ウィリアム・ロウアン・ハミルトンの四元法算法の発見に貢献した;そしてリチャドゥは、グリーク(ギリシャ)の神学者で欽定講座担任教授;そしてジェイムズは、考古学者;そしてロバトゥ、彼は彼の後名付けられた、病を考案し、ターナー家の友人だった:そしてロバトゥ、古典学者、それに聖職者で、ワーズ・ワース家の友人;そしてリチャドゥは、もう一人の聖職者;そしてロバトゥは、もう一人の聖職者;で異なるロバトゥ達、ジェイムズ達、タマス達、そしてリチャドゥ達;そしてクラリサ、アイアランドゥの乾杯の一つ、彼女はリーアポウルドゥ・フォン・ランカを射止めた(ウィンダミア教会で)、僕の父と母が結婚する前、グレイヴズとフォン・ランカ二世代を結び付けた。(大英博物館目録18並びに19世紀グレイヴズ文学史の記録を見て下さい。)
 僕の父が僕の母を知ったのは、それはこのクラリサ‐リーアポウルドゥ親戚関係を通じてだった。
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2024年1月23日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 僕の父は、それから、90年代初めに僕の母を或る時見染めた。彼は前にもアイリシュ、クーパの一人を娶(めと)った、リメリックに近い、クーパズ・ヒルの。クーパの者はグレイヴズの者よりアイルランド人的家系だった。その話は、クラムワル(クロムウエル)がアイアランドゥに来て、国を荒廃させた、モイラ・アブライアンは、最後の生き残りの偉大な氏族アブライアンのメムバ(メンバー)、彼はリメリック周辺の国の卓越した首長で、彼の所に或る日やって来た:「大将、貴方は私の父と叔父、私の夫と私の兄弟を殺してしまった。私はこの島々のただ一人の後継者として残されています。貴方はそれを没収するつもりですか?」クラムワルは彼女の素晴らしい存在感に心を打たれたことやこれは確かに彼の意図だと答えたと言われている。しかし彼女は彼女の島々、或いはそれらの内の一部を守り抜けたと、彼女が彼の将校達の内の一人を迎えるという条件で。そしてそこでアブライアンが一組のカードゥを選ぶために招かれモイラを娶る所有地の跡を継ぐという特権の為に切った。その勝者がエンサイン・クーパその人だった。結婚後2,3週、彼女自ら妊娠に気付いた。それは男の相続人だと確信した、実際それは判明した。彼女は彼女の夫を殺した。彼女は彼を酔わせた後、胃のへこみに命中すべく彼を蹴ったとそう言われている。
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2024年1月22日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 主教オウカンルは嘗て彼の家族の背格好について彼を冷やかしたことがあった、そこで僕の祖父は屋が詰まった彼の矢筒を持った男の祝福について原典を持って情け深く切り返した;それに対してオウカンルは簡潔に答えた:「昔のユダヤ人は、震えはひたすら6回を維持した。」僕の祖父の通夜は、彼らが言った、リメリックの町で今までに知っている最も長いものだった:それは大聖堂からオウカンル通りを真っ直ぐに下ってサーズフィールドゥ・ブリジの上に伸びた、僕にはアイリシュの彼方何マイルか分からない。彼は一人の子供として僕を祝福した、しかし僕はそれを覚えていない。僕の父の母についてアバディーンからチェイン、僕は、彼女は「実に美しい女性」で、アイアランドゥ軍への内科医大将の娘というその事実以上に何の情報もまるで手に入れることができなかった。僕はただ彼女か家族の会話の争いの中で何を語り、見過ごされてしまったかの大部分を断定できる。チェイン家系はサー・レジャナルドゥ・チェイン、スカトゥランドゥの宮内長官に不備の無い権利を1267年に返した。ずっと後の時代にチェインらは法律家や医者になった。何れにせよ僕の父は今のところ彼の自叙伝で忙しくしているし、疑いなく、この全てについて長々しく書くだろう。
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2024年1月21日日曜日

Good-by to All That Rpbert Graves 成田悦子訳 

最も強硬にマークされた一族の特性を持つ僕の親戚の者の無駄話は神経の無秩序にある。話が進むに連れ酷い話ではなく、何時も情報を提供してくれ、しばしば気も利いていて、ところがそれはどんどんどんどん発展する。フォン・ランカの者は機械の才能をそれぞれが殆ど持っていないように思える。内臓燃焼エンジンや電動発電機の時代の最中に生まれること、そういうものに共感できないこと、それは最高に迷惑だと僕は気付いた。自転車、携帯用石油コンロ、、そして軍用ライフル銃は僕の機械の受容力の限界を示す。
 僕の父系の祖父は、リメリックのプロテスタントゥ主教で、8人の子供達を持った。彼は非凡な数学家だったー彼は初め球状の円錐の或る理論またその他を公式化したーそしてその上アイリシュ裁判官法律やオガム文字アルファベトゥに関する主要な権威にもかかわらず、評判によって、寛大から遠のく。彼とオウカンル、カサリク主教は条件の極めて良い所で暮らした。彼らはお互いにラトゥン(ラテン)ジョウクを言った、学問の素晴らしい点を話し合った、そして非常に真面目に彼らの宗教の違いを受け容れることも全く聖職者らしくなかった。しかし僕の祖父の死後およそ19年、リメリックで、守備隊の兵士として僕は町民から彼の話を聞いた。
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2024年1月20日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 18の年に、僕の母はブリテインさんへの付き添いとしてイングランドゥへ行った、孤児として僕の祖母に助けられた孤独な老婦人、そうして17年間彼女の手足となって身の回りの世話をした。彼女はついに他界し、僕の母は、彼女の唯一の相続人で、その意志からそもそも利得を得ることはないだろうという老衰の印象の下、彼女には10万パウンドゥの財産があったということが判明した。お手本通り、僕の母は彼女の4
人の妹達のそれぞれに遺産を分配した、5分の1だけは手元に置いた。彼女はインディア(インド)に行こうと決心した、医療の伝道者としての短い訓練の後。この大望はやがて5人の子を抱えた男やもめ、僕の父を知る事で挫かれた;彼女は家庭伝道師分野でのいい仕事としてやって行けるだろうということ、それが彼女にも明らかになったのだ。グレイヴズ家は1485年にミルファードゥヘヴンにヘンリ7世と共に上陸したフレンチ騎士まで遡る系図を持つグレイヴズ大佐円頂派は一族のアイリシュ分家の創始者として承認を求められる。彼は嘗て負傷しテイムの市場で死へと旅立った、その後カリスブルーク城で国王チャールズ1世の要請を受けた、そして遅れて王党派になった。リメリックはこの分家の中にいた。その中の臨時の兵と医師らは主として担保だった;直通郵便網は教区司祭の序列を掌握した、首席司祭、そして司教、僕の曽祖父ジョン・クロズビー・グレイヴズ、彼はダブリンの国王直属警察裁判所判事だった。リメリック・グレイヴズはどんな「技能」或いは機械のセンスすらなかった;しかし座談家として広範な評判を得る。
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2024年1月19日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕はそれによって何を言いたかったのか分からない、しかしそれは彼の怒った家長の雰囲気とも、枢密顧問官フォン・ランカ様としてバヴァリアン(バイエルン)社会で傑出した立場の容認とも、それに彼のカイザ(カイゼル)への忠義とも、一度か二度鹿狩りに行った誰かとも矛盾しない声明だった。それは、事実上、彼は彼自ら政治に於けるように宗教に於いてもかなり進歩主義者で、僕の祖母が気に病む必要はないと思ったということを意味する。僕は僕のジャーマン(ドイツ人)の親戚を賞賛する;彼らは高い信条を持ち、気楽で、寛大で、そして真面目だ。男達は安っぽい個人的名誉のためにではなく、公共の利益に於ける闘争に励んだー大声で叫んだ、例えば、彼らは恥ずべき優れた役人か政府高官の行いというものに異議を唱えたから。彼らの内の一人はシークレトゥ・サーヴィスのリポートゥのために手形交換所としてランダンの領事館を使うことを拒んだからドイツ領事サーヴィスの年功を失くした。彼らはどちらにしても大酒飲みではない。僕の祖父は正規の大学で、学生として「酔っ払い」、誰も見ていない時、彼の1840年乗馬ブーツの中に溢れるほどのビアを注ぐ習慣を持っていた。彼は、家では英語を話すよう彼の子供達をしっかりと導き、常に文化と進歩の母国としてイングランドゥに目を向けた。女達は高貴で我慢強く、彼女達は歩いて外に出ると、地にその眼差しを置いたままにするのが常だった。
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2024年1月18日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は娶(めと)った、ランダンで、僕の祖母を、小さな、清い、脅えたシュレスヴィヒ‐デイン、グリニジ天文学者ティアークスの娘。彼女の父が天文学に傾倒する前、ティアークス家は、そう思える、父と息子の間で代わるがわる職業に就くというデンマーク国のシステム、全て酷いものというわけではないが、に従って来た。奇数の世代はブリキ屋だった、そして偶数の世代は牧者だった。僕の比較的礼儀正しい特性は僕の祖母まで遡(さかのぼ)る。彼女は十人の子を持った;この内の最年長が、僕の母で、ランダンで生まれた。僕の父の無神論と急進主義は落ち着いた。彼はついにジャーマニ(ドイツ゚)に帰還した、そこで彼はミューニク(ミュンヘン)で、それにイウアラプで初めて彼の子供の患者用に清浄なミルクを要求した事でもよく知られた小児科医になった。彼は月並みな手段では病院に清浄なミルクを持って来ることはできないということに気付くと、彼は彼自ら模範酪農場を始めた。彼の不可知論は僕の信心深く、ルター派の祖母を悲しませた;彼女は彼のために祈ることを止めなかった。それにしても彼女の子供達の魂を救うことに殊更集中した。
 僕の祖父は全く罪深くない人で死ななかった;彼の最後の言葉は:「私の父である神よ、彼の人に少なくとも私は掴まっている。」
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2024年1月17日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

彼は書いた、彼の同時代の人々の不祥事に対して:「私はクリスチャンである前に歴史家だ;私の目的は単にどのように物事が実際に起こったか探り当てることである、」そしてフランス歴史家ミシュレを論じながら「彼は或る様式で歴史を書いた、そこで真実が語られるはずがない。」タマス・カーライルは埃の‐ように‐乾燥したと彼を非難したということは全く信用しない。ハインリッヒ・フォン・ランカに、僕は、僕の不器用な豪放さ、忍耐力、精力、真面目さ、そして僕の厚い髪は負うている。彼は、青年時代は反抗的で無神論的でさえあった。医学生としてプラシュン(プロシアの)大学で彼は1848年の政治混乱に参加した、学生達は激しい反逆に向けての彼の試みの時にカール・マークス同様、彼らは国を後にしなければならなかった。僕の祖父はランダン(ロンドン)に来た、そして彼の医学コースを終えた。1854年に、彼は連隊の外科医として英陸軍と共にクライミア(クリミア)に向かった。僕がこの事について知っている全ては、これが、僕が子供だった時、彼が僕に用意したというチャンスだ:「最も強いのは必ずしも大きな体ではない。サヴァスクポウルで塹壕の中、私は大英連邦の守備隊が大破し、厳然たる事実によって死ぬのを目の当たりにした、しかし取るに足りない工兵らは何の被害も受けなかった。」今なお、彼の巨体は彼を上手に運んでいた。
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2024年1月16日火曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳


僕は170パウンドゥ体重がある。僕の最高の喜劇的な回転は異常に自由に動く関節を持った骨盤だ:僕はテイブルの上に座り、それと共にファクス・シスタズ(Fox sisters)のようにトントン叩ける。片方の肩が明らかにもう一方より低い位置にある、肺損傷の所為。僕が腕時計を携帯しないのは、僕は何時も主ゼンマイを磁化するから;一つの指示が出たら、将校達は腕時計を携帯し、日常的に時間を合わせようとする、僕は毎月新品二つを買わざるを得なかった。医学的に、僕は望ましい生物だ。僕のパスポートゥは「英国の国民」として僕の国籍を提供する。僕はマーカス・アウリーリアスを真似てもいいだろう、彼は彼のゴウルダン・ブクを多彩な祖先や彼が尊敬に値するローマ皇帝の人徳の恩恵を受けている親類と共に着手する:何故私はローマ皇帝どころか、好機以外、英国紳士でさえないのか釈明しながら。僕の母の父の家は、ランカの出身、サクスン人国牧者であり、大昔には貴族ではなかった。リーアポウルドゥ・フォン・ランカ、近代歴史学の祖、僕の大叔父、「フォン(出身)」を持ち込んだ。僕は彼に何かと恩恵を受けている。
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2024年1月15日月曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

僕が初めてパスポートゥを取得した頃、1926年には便利なものだった、僕は「ライタ(作家)」と記入しようかと思った、しかしパスポートゥ役人はしばしばその言葉に複雑な反応をした。「大学教授」には通り一遍な反応を得る:下らない敬意。どんな質問もしない。そこでまた「陸軍大尉(恩給受給名簿)」と付加。
 僕の身長は6フィートゥ2インチ、僕の目は灰色、僕の髪は黒として与えられている。「黒」に厚くカールしていると付け加えられるべきだ。僕は誤ってどんな奇癖も持っていないと説明される。初めに、そこに僕の大きなワシ鼻がある、僕はサカ(サッカー)選手達と愚かにもラグビをしている間に移動式木造住宅でそれを折った。(僕は他の選手の鼻を同じゲイム中に僕自ら折った。)あれが、それを不安定にした、バクシング(ボクシング)はそれを斜めにした。ついにそれは未熟な陸軍外科医によって手術された、そしてもはや僕の顔の左と右側の間の縦方向の境界線として役に立たない。それは当然調和しないー際立ってすっかり歪められた僕の目、眉そして鼻、そして僕の頬骨、それはかなり高く、違う水準になっている。僕の口は何を知られているのか「ぽってりした」一物だ。そして僕の笑顔は口を結んだままだ:僕が13だった時、僕は前歯二本を折り、それらを見せる事に敏感になった。僕の手も足も大きい。
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2024年1月14日日曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 何れにせよ僕はシェイクスピアの読書サークルに言及した。それは何年も続き、僕が16だった時、好奇心は遂に僕をその集会の一つに送った。僕は、全く口やかましくない母が僕の愛想のいい父のペトゥルキオに口やかましい女の飼い慣らし(じゃじゃ馬慣らし)の中のカサリン役を読む、それに伴う快活さを覚えている。モーリス・ヒル夫妻はサークルの最も人気のあるメムバの中の二人だった。この集会は彼らが判事ヒル氏とレイディヒルになる前、何年も行われた、そうして、同様に、僕は、夢中になって「口やかましい女(じゃじゃ馬)」を覗いた。僕は、レマネイドゥグラス、胡瓜サンドゥウイチ、ペティフォ(プチフール・一口大のケーキ)、応接間の小さな装飾品、蜂のキク、そして日の周りの安楽椅子の半円を覚えている。ホーテンシオとしてモーリス・ヒルの優しい声は僕の父を説き諭した:「今はお前の道を行け;お前は忌々しいガミガミ女を服従させた。」僕は僕自身ルシオとして余興を終えた:「それは驚きだ、貴方の暇(いとま)乞いによって、あんなに素直になる。」僕は何時か離婚法廷の判事として彼の方針を彼が話すのを聞きに行かなければならない;彼の訓戒は有名になっていた。
 「草創の記憶」の後、僕はおそらく僕自身のパスポートゥ記述を述べるべきで、それら自体が項目を増大させる。誕生日…生誕地…僕は既にそうしたことを伝えた。職業…僕のパスポートゥに僕は「大学教授」と記してある。
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2024年1月13日土曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳 

僕はスペクテイタやパンチの僕の一筋縄ではいかない叔父チャールズを正確に要約した、それに僕の横柄な叔母グレイス、彼女は乳母車や男女の中に入って来た、そして彼女の到着が何時も大騒動を引き起こしたのは彼女は女性司教だったから;やがて僕の親戚の全員永眠。
 僕はアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンについてどんな幻想も持ち合わせていなかった、ウィンブルダン公園の片隅で、彼は度々僕の乳母車を止め、彼は子守の散歩中それに出会うと、その頭で僕を軽く叩き、僕にキスしたものだ:彼は慢性的な乳母車止め屋で叩き屋でキス屋だった。子守の散歩は「松林」、プトゥニー(彼がワッツ‐ダンタンと暮らしていた所)やロウズやクラウン居酒屋の間を縫って行った。ワッツ‐ダンタンは彼にその代金2ペンスを許し、それ以上はなかった。僕はそのスインバーンが詩人とは知らずにいた、ただ僕は彼が公の脅威であるということは分かった。スインバーンは、そのやり方で、まさに青年の頃、ウォルタ・サヴィジ・ランダに行ってしまった、それからかなり年寄りになって、彼が望んだ詩人の祝福を与えられた;そしてランダは子供の頃サミュエル・ジョンスンによってその頭を撫でられた;そしてジョンスンは子供の頃瘰癧(るいれき)、国王の邪悪;の所為で女王アンに触れられようとしてランダンに連れて行かれた、そして女王アンは子供の頃・・・
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2024年1月12日金曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 Ⅰ

自叙伝の慣習を受け入れる僕の心構えの証拠として、僕の二つの最初の記憶をまず僕は書きましょう。一番目は1897年の女王ヴィクトーリアのダイアマンドゥの祝典のために飾られた四輪馬車と幌馬車の行列を見物しようと窓辺で忠誠を示すかの如く持ち上げられたことだ(これはウィムブルダン(ウィンブルドン)であった、そこで僕は1895年7月24日に生まれた)。二番目は子供部屋の戸棚を一種絶望的な恐怖の念で見上げることだ、それは思いがけず開けっ放しになっていたりする、シェイクスピアの八折版本の巻で天井まで埋まっていた。僕の父はシェイクスピアの読書サークルを組織して来た。僕は、これがシェイクスピア入れだとずっと後まで知らなかったが、一見して、僕は既に応接間の行事に強烈な衝動を覚えていたようだ。つまり高名な訪問者達が家にやって来ると、かのシェイクスピアの博識を持ったサー・シドゥニー・リーのように、或いはロードゥ・アシュボーン、未だ貴族ではない、かの「アイアリシュ(アイルランド人)のためのアイアランドゥ(アイルランド)」という声高な話っぷりと、かの黄金色のキルトゥ、或いはイウステイス・マイルズ、イングリシュ現ーテニスチャムピアンにして、かの外来種ナトゥ試供品を供給するヴェジテアリアン、僕は彼らの事なら僕なりに何でも知っていた。
3

2024年1月11日木曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 かなり多くの変更がここに本文中で為されたー数多(あまた)の退屈或いは馬鹿げた継ぎ接ぎの省略;2、3の伏せられた逸話;5年後書かれたより長いものによるT.E.Lawrence(ロランス)章の差し替え;誤った言明の事実に基づく訂正;そして僕の尤(もっと)もらしくぼろぼろの散文の全般的な編集。幾つかの固有名称は、そうした原作のごまかしがもはや要らない箇所では修復された。
 仮にどの一節が、この年月を経た後になお攻撃性を帯びているにしても許されるものならそうしてほしい。


デヤ、
マジョーカ、
スペイン。
1957

2

2024年1月10日水曜日

Good-bye to All That Robert Graves 成田悦子訳

 プロウログ

僕が或る処は書き、或る処は口述した、この本、複雑な国内危機最中(さなか)の28年前、修正にごくわずかな時間を費やし。あれは、僕がそれまでにかなり多くのしきたりを破って来たイングランドゥとの僕の苦渋の去るという選択だった;口論をするか、或いは縁を切られたりした、僕の友達のほとんどに;企てられた殺人の容疑に関して警察に厳しく尋問された;そして誰が僕の事をどう思おうと気に病むのを止めた。
 Good-bye to All Thatを何度も読む内に、1929年以来初めて、僕はどのように僕の出版社は名誉棄損の訴訟を免れたのかしらと思った。
 国内の危機は何時も高くつく、しかし本はイングランドゥでも合衆国でも十分よく売れた、不景気にもかかわらず、それはまさに僕の借金を払ったり、将来への差し迫った不安もなくマジョーカで暮らし書くために僕を自由にして置くのにあてがった。そのタイトゥルは標語になった、Bartlett’s Familiar Quotations(バートゥレトゥの語群引用)への僕の唯一の寄稿。
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1月10日、去年The Quiet Americanを翻訳し始めた時と同じ日からGood-
 bye to All Thatを訳し始めます。文庫本で上下岩波書店から出ています。一日文庫本で1頁ずつ訳しますから2年かかります。「成田悦子の翻訳テキストとちょっとしたことhttps://naritaetuko.jpに翻訳の方針、岩波書店訳者工藤政司さんとの相違点の考え方などを毎日書きます。