あらゆる規律、秩序、価値に対して、人は自由であると、山本義隆と東大全共闘は言う。
先ず、人は、まったき自由を願うか?
不自由もなかなか捨てがたい。
バリケードの中で、東大医学部にロボトミー手術を施され、東大、京大、湯川秀樹、山本義隆、共産党民青に唆(そそのか)されたた18、19の子供達に自由を勝ち取る意志があろう筈がない。
彼らにあったのは、人生の落伍者になる事にOKのサインを迫られているという焦燥感だけ。
自己の自由達成の為にバリケードを築くという幼い発想は、文部省、東大、警視庁、機動隊の朴ちゃんらしい発想である。
バリケードの中で、山本義隆は、一生食べて行けるのか!
いけないだろうが。
ならば、学士の称号さえ持たない学生を、バリケードの中に閉じ込めてはならない、ならなかったのだ。
自己の変革にバリケードは、要らない。
狭い囲いの中に自由はなく、自己変革どころか、束の間の平和や安らぎさえ得られない。
自己変革は、強要されて得るものではなく、又自己変革は、強迫観念によって得るものでも、得られるものでもない。
人は変革しなければならない、と共産党的発想の人は何時も考える。
山本義隆は、共産主義者に過ぎない。
湯川秀樹も同じ。
共産、共に生産する。
そこに自由があるか?
非生産的である事こそ、望まれ場合だってある。
自由はなくてはならないものではないが、そうとは気付かない程度の自由くらい欲しい。
21:43 2019/03/25月